切れた受話器の声

秋月塔子は、断るときほど文章が長くなった。〈申し訳ないのですが〉で始め、事情を並べ、代案を三つ出し、最後に泣き顔の絵文字をつける。それでも送信後は、嫌われたかもしれないと何度も読み返した。

制作会社で、塔子は「頼みやすい人」だった。先輩の修正、後輩の確認、休日の撮影。今週末も、本来の担当ではない現場を頼まれている。断りたい。でも返事を保留したまま、木曜の夜になった。

土曜には、妹と家具を見に行く約束がある。仕事を理由に断れば、妹はきっと笑って許す。先輩も、塔子が引き受ければ助かったと笑うだろう。誰も怒らない形を選ぶと、いつも塔子との約束だけが消えた。それでも「私用です」と言うのは、仕事に負けるほど弱い理由に聞こえた。

帰宅途中、公園の端に古い公衆電話があった。撤去予定の紙が貼られ、受話器のコードは途中で切れている。塔子が珍しさに触れると、発信音の代わりに声がした。

「聞きたい声ではなく、聞かせたい声は何ですか」

塔子は受話器を落としかけた。

「十秒だけ録音してください」

「誰に送るの」

返事はない。受話器の小さな画面に、十から逆の数字が灯った。

塔子は口を開いた。最初はいつもの謝罪が出そうになったが、十秒では事情を説明できない。

「今週末の撮影は、引き受けられません」

七秒。あと三秒あったが、言葉を足さなかった。数字がゼロになり、受話器から自分の声が再生された。冷たくも怒ってもいない。ただ、扉のように閉じていた。相手を締め出すためではなく、自分の時間が勝手に運び出されないための扉だった。

スマートフォンには、先輩から〈土曜、決まりで大丈夫?〉と来ている。塔子は文字入力を開き、長い断り文を作りかけた。

公衆電話の画面に〈録音を持ち帰りますか〉と表示される。塔子が触れると、音声ファイルがスマートフォンへ届いた。

十秒にも満たない自分の声。聞き直すと、胸が縮む。それでも削除せず、先輩とのチャットに添付した。

送信前の空欄へ、〈この通りです〉とだけ打つ。

塔子は絵文字を選ばず、音声の再生ボタンの隣にある送信矢印を押した。