削除しない下書き
郁美は絵を描き始める前に、人気の作品を保存する。
光の入れ方、線の細さ、色の重ね方。参考にするためと言いながら、下書きができる頃には自分の絵が古く、鈍く、足りないものに見えた。誰にも見せていないのに恥ずかしくなり、ファイルを削除する。
ごみ箱には、顔の途中、手の輪郭、色を置く前の空が溜まっていた。完成しないのは才能がないからだと思っていたが、完成まで残しておいた絵がほとんどないことには気づかないふりをした。
子どもの頃は、ノートの端に描いた顔を友人へすぐ見せていた。似ていなくても、髪型がおかしくても、次のページには別の顔を描いた。今は公開される完成作ばかりを見て、最初の線から完成していないことを恥じている。他人の何十時間と、自分の十分を並べては、始めたばかりの絵を終わったものにした。保存ボタンより削除キーの方が、いつの間にか押し慣れていた。
日曜の朝、郁美は窓辺の鉢植えを描いた。葉は七枚なのに、画面では六枚になった。茎の角度もおかしい。参考用に開いた投稿には、透明な水滴まで描き込まれた植物画が並んでいる。
郁美は自分の下書きを縮小した。比べると、線が幼く見えた。削除キーへ指を置く。
そのとき、鉢植えから乾いた葉が一枚落ちた。実物も七枚のままではいなかった。郁美は落ちた葉を拾い、机の端へ置く。
参考画像のタブを閉じた。
上手に描き直す気力はまだない。だから完成させるのではなく、削除だけをやめることにした。ファイル名の「失敗」を消し、「鉢植え_下書き1」として保存する。
画面を閉じても、絵は上達しない。明日見れば、やはり線の弱さが気になるかもしれない。それでも、ごみ箱へ入れなければ、明日の自分が続きを選べる。
郁美は落ちた葉を小さな皿にのせた。描き足すことも、写真に撮ることもしない。
保存フォルダには、未完成のファイルが一つ増えた。完成作品の一覧ではない。消さなかった朝の形として、灰色のサムネイルが残った。