北側のガラス
校舎改修の朝、堀川栞奈はクレーンで吊られたガラスの隅に、小さな刻印を見つけた。
低放射ガラスのコーティング面を示す番号が、施工図と逆になっている。後輩が南面の詳細図を複製して北面へ使い、左右反転した際に注記だけを戻さなかった。すでに二枚が枠へ納まり、三枚目が空中にある。
見た目は同じだが、向きを誤ると結露しやすくなり、清掃時にコーティングを傷つける。教室の使用開始は三日後。現場代理人は「北側なら日射も弱い。検査で指摘されなければ、そのまま進めたい」と言った。
栞奈は無線でクレーンを止めた。吊り荷の下から人を退かせ、刻印と製造証明を照合する。二枚も同じ向きだった。
「外して入れ直します」
作業を戻せば半日遅れ、追加費用も出る。だが壁の中へ隠れた間違いは、完成後に毎朝の水滴として残る。急いでいる現場ほど、見えなくなる前が最後の判断だった。
後輩は図面を抱えて言った。
「反転機能を使ったあと、寸法だけ確認しました」
「複製が悪いんじゃない。反転すると意味が変わる注記を、寸法と同じ色で置いたのが悪い」
栞奈は北面のガラスを外し、正しい向きで組み直す工程を作った。図面ではコーティング面、開閉方向、防火区画を別の確認層にし、反転時に警告が出る設定へ変えた。施工前には現物の刻印を二人で指差す手順も追加した。
午後、正しい三枚目が枠へ入った。外した二枚には傷がなく、翌日の工程で使い直せることも分かった。半日の遅れは残ったが、廃棄までは出なかった。後輩は最初の刻印を自分で読み上げた。栞奈はその声が終わるまで、次の合図を出さなかった。教室側から見ると、北の空が曇っていてもガラスは静かに明るかった。完成後には見えなくなる刻印を、今だけは全員が見ていた。
会社へ戻ると、栞奈には設計室へ戻る辞令案が届いていた。現場の遅れを背負わずに済む席だった。
栞奈は辞令案を閉じ、次の改修工事の現場責任者欄へ署名した。
そして、修正済みの北面詳細図を提出した。