十三階提出の退職願

当日退職を希望する者は、退職願を十三階へ提出する。

署名欄は空白のままにし、会社から貸与された筆記具を添える。十三分後、その会社に残り続けた自分が署名して返す。日付や退職理由を訂正してはいけない。筆跡が読めなくても、人事は受理する。

砥部章は、金曜の朝に退職を決めた。

十年勤めたが、送別してくれそうな相手はいなかった。同僚は何度も入れ替わり、顧客は番号で呼び、上司は彼を「担当」と呼んだ。机の引き出しには、会社のロゴが入った万年筆だけが残っている。

昼休み、退職願と万年筆を封筒へ入れた。

貨物エレベーターは十二階を過ぎ、十三階で止まった。床に細い投入口がある。砥部が封筒を入れると、向こう側で椅子を引く音がした。

十三分後、別の封筒が出た。

退職願には署名があった。自分の名前だが、字は細く震えている。退職日は今日。理由欄には一行増えていた。

《三十七年勤務したが、最後まで誰にも名前を呼ばれなかったため》

砥部はまだ十年しか勤めていない。規則では訂正できない。

人事担当者は書類を見て、「長い間お疲れさまでした」と深く頭を下げた。社内記録も三十七年へ書き換わり、砥部の顔写真は老け、表彰歴が十三件増えていた。本人の鏡像だけは三十二歳のままだった。

退職処理は一時間で終わった。

同僚たちは「担当の方が辞めるらしい」と話した。砥部は一人ずつ自分の名前を告げたが、聞いた者はすぐ電話番号としてメモした。

会社を出て、喫茶店で万年筆を確認した。返却されたそれは妙に軽い。胴軸を開けると、インクカートリッジの代わりに、細い白髪が何十本も詰まっていた。

砥部は店の紙ナプキンへ名前を書いた。

ペン先から黒い文字ではなく、老いた手の皺が一本ずつ伸びた。皺は紙の上で十三本の指になり、彼の名を囲んだあと、小さく拍手した。

紙ナプキンの中央に残った万年筆だけが、誰にも握られないまま「砥部章」と何度も書き直し、最後の一画を終えるたび三十七年分ずつ錆びていった。