午前零時の境内
送別会のあと、一人で会議室を掃いていた鈴音は、ロッカーから色褪せた祭りの腕章を見つけた。
〈清掃係〉。裏には日和の字で、〈最後まで〉と書いてある。
高校三年の夏、鈴音と日和は吹奏楽部で同じソロを争っていた。どちらか一人だけが秋のコンクールで演奏する。二人は親友であり、負けたくない相手でもあった。
夏祭りでは部の演奏後、清掃係として境内に残った。午前零時、屋台は閉まり、人の消えた石畳に割れたコップや濡れた紙が散らばっていた。
日和は黙って箒を動かしていたが、突然言った。
「私、コンクール出ない」
父親の失業で、来月、祖父母の家へ移る。学校も部活も辞めるという。
鈴音の最初の感情は、悲しみではなく怒りだった。
「逃げるの?」
「そうかも」
「勝手にいなくなったら、私が勝ったみたいじゃん」
日和の箒が止まった。
「それ、私がいなくなることより大事?」
鈴音は答えられなかった。公平に競い、結果を出し、笑って卒業する未来ばかり考えていた。日和がそこから消えることを、勝敗の形でしか受け止められなかった。
日和はしゃがみ、金魚すくいの破れたポイを拾った。
「負けた方が消えるわけじゃない。でも、いなくなる人を惜しんでくれないなら、勝ち負けより寂しい」
境内の時計が零時を打った。鈴音は箒を置き、初めて日和の顔を見た。
「行かないで、じゃ困らせる?」
「困る」
「じゃあ、行っても惜しむ。ずっと」
日和は泣きながら笑った。
「それなら、少し嬉しい」
二人は朝まで清掃し、最後に腕章の裏へ〈最後まで〉と書いた。関係を守り切るという意味ではない。終わる夜から目を逸らさないための言葉だった。
十年後。鈴音は同じ部署で競ってきた同僚を、今日、遠い支社へ送り出した。昇進枠を争い、最後まで素直に寂しいと言えなかった。
会議室を掃き終えた鈴音は、同僚へ電話をかける。
「さっき言えなかったけど、いなくなるの、すごく惜しい」
電話の向こうで沈黙があり、やがて笑い声が返った。
腕章を鞄へしまい、照明を消す。
午前零時の境内には戻れない。それでも、勝ち負けより先に誰かを惜しむ言葉を、今度は間に合わせることができた。