半分の真名
病魔を封じる円の中で、ジェスカナは悪魔ハルヴェンの鎖を握った。
兄ラドゥの身体には、村中の病が集められている。夜明けまでに病魔を追い出さなければ、兄ごと焼かれる。
ハルヴェンとの契約は、命令を一つ与えるたび、ジェスカナの真名から一音と、悪魔の真名から一音が入れ替わるというものだった。真名が混ざるほど、彼女は悪魔に、悪魔は人に近づく。
「病魔の姿を見せろ」
一つ目の命令。
ラドゥの口から黒い鹿が這い出た。ジェスカナの爪が少し尖り、ハルヴェンの角が短くなる。
「円から出すな」
二つ目。悪魔の鎖が鹿を縛る。ジェスカナの瞳が金色になり、ハルヴェンの目に人の白目が生まれた。
病魔は百の口で泣き、兄の身体へ戻ろうとする。
「その声を奪え」
三つ目。
鹿の口が閉じる。ジェスカナの舌が二股に裂け、ハルヴェンの声が若い男のものへ変わった。
残る命令は一つで足りる。病魔を焼けと言えば終わる。
だが真名の半分を交換した今、契約円はジェスカナを悪魔側、ハルヴェンを人間側として認識し始めていた。次の命令で真名が完全に入れ替われば、鎖につながれる者も逆になる。
「やめろ」とラドゥが呻く。「俺ごと焼け」
ジェスカナは兄の額へ触れた。熱い。幼いころ呼ばれた自分の名が、もう半分だけ他人の音に聞こえる。
「病魔を焼き、ラドゥを生かせ」
四つ目の命令を下した。
黒い鹿が白い炎に包まれ、灰になった。兄の皮膚から斑点が消え、呼吸が戻る。
同時に、真名が完全に入れ替わった。
鎖がほどけ、ハルヴェンの角と翼が落ちる。彼は裸の人間として円の外へ倒れた。
代わりにジェスカナの背中が裂け、黒い翼が広がる。額から角が伸び、足元の影に尾が揺れた。契約円の鎖は彼女の首へ巻きつく。
ラドゥが起き上がり、妹の名を叫ぶ。
円はその名へ反応せず、人間になったハルヴェンの手首を淡く光らせた。
「それは今、私の名だ」と彼が震える声で言う。
ジェスカナは自分の新しい真名を知っていた。ハルヴェン。その音を思うだけで、鎖が締まる。
兄は円の外から手を伸ばしたが、聖別された境界が彼女の爪を焼いた。
村の病は消え、契約悪魔は人間になった。
記録には《少女ジェスカナが兄を救った》と残ったが、その名で振り返る者は円の外にいた。中に残った悪魔だけが、かつてその名を自分のものにしていたことを覚えていた。