同じハッシュの別稿
海外ゲームの日本語版検収会議で、三津谷新は翻訳会社の進行担当として、報酬九百万円の支払拒否を告げられた。発注元の久米川ローカライズ部長は、納品稿が最終指示を反映していない旧版だと主張した。
問題は、主人公の敬語表現が三百箇所違うというものだった。
久米川は二つのファイルを示した。「最終指示版」と「下請け納品版」。ファイル名も更新日時も異なる。最終版を使わなかった翻訳会社の責任だという。
新は両方のハッシュ値を計算した。文字列は完全に同じだった。
「名前と時刻を変えただけで、中身は同一です」
久米川は、比較ツールの不具合だと言った。新はファイルを一文字ずつ照合し、差分ゼロを表示した。
さらに「最終指示版」の作成時刻は納品の二週間後。発注元が発売後のユーザー反応を見て、敬語方針を変更した文書だった。変更履歴には「翻訳会社責任として再作業」と久米川自身が記している。
契約書では、検収後の方針変更は追加発注とする。元稿には発売前日の午後四時、久米川の「全行承認」電子署名が付いていた。
久米川は、ゲーム業界では発売後修正も込みだと圧をかけた。
「次回作を受けたいなら、無償で三百箇所直せ」
新の会社は、このシリーズで売上の半分を得ていた。上司は目を伏せたが、新は承認済みファイルの電子指紋を監査担当へ送った。
「別稿なら差分があります。同じ稿なら、未反映という理由はありません」
新は発売後修正版の見積書もその場で提示した。三百箇所の修正費は百二十万円で、作業日数は五日。発注元は費用をゼロにするだけでなく、元の九百万円まで保留して交渉材料にしていた。検収印は既に押され、売上も計上済みだった。
久米川は承認印を誤って押しただけだと言った。だが検収完了メールには、品質確認済み、請求可と本人が三行で明記していた。誤押印ではなく、支払後の方針変更だった。
発注元の制作役員が支払拒否の決裁を止めた。同じハッシュを持つ二つのファイルは、九百万円だけを別の結論へ運べなかった。