同じ席を好きな人
井坂茉莉は、同じ部署の先輩と相性が悪いと思っていた。
先輩は仕事が速く、雑談をしない。茉莉も職場では感情を表に出さない。二人とも週末の予定を聞かれると「用事です」で終えるため、共通点などないはずだった。
金沢公演の客席で、隣の席にその先輩が座るまでは。
互いに顔を見て固まった。茉莉の膝には推しの名前入りクッション、先輩の鞄には限定チャーム。しかも、チャームに下がる札には「北窓」という名があった。
茉莉は息をのんだ。北窓は、感想投稿で何年もやり取りしている相手だった。冷静な考察を書く人で、茉莉のアカウント「まりあめ」が毎回長文を送っても、丁寧に返してくれる。
一度、茉莉が遠征先で財布をなくしたと投稿したとき、北窓は劇場近くの交番と終電をすぐ調べてくれた。顔も本名も知らないのに、職場の誰より弱った自分を見せられる相手だった。
先輩も、クッションに刺繍された「まりあめ」を見ている。
開演ベルが鳴り、確認する時間はなかった。二人は並んで舞台を観た。笑うところも、息をのむところも同じで、カーテンコールでは同時に立った。暗転のたび、隣にいるのが苦手な先輩なのか、大切な北窓なのか分からなくなり、その境目が少しずつ要らなくなった。
終演後、ロビーで先輩が先に言った。
「まりあめさん、いつも感想ありがとうございます」
会社の声と同じなのに、少しだけ柔らかい。
茉莉は、職場で知られる恐怖より、北窓が目の前にいた驚きのほうが勝った。
「北窓さんこそ。あの二幕の解釈、今日やっと分かりました」
二人は駅まで話し続けた。仕事の愚痴は一つもなく、照明と台詞と次の遠征先の話だけだった。
月曜、先輩はいつも通り無表情で資料を置いた。周囲には何も言わない。その代わり、付箋に小さく書いてある。
《大阪公演、隣席が一枚取れます》
茉莉は社内チャットを開いた。北窓ではなく、先輩の本名宛てに送る。
『行きます。今度は同じ席を好きな井坂茉莉として』
送信後、推しのクッションをしまっていた引き出しを少し開けた。限定刺繍が、仕事机の下で初めて光に当たった。