名前を一字だけ
鶴巻澪佳は、娘の出生届に「汐」と書いた。海のように穏やかな子に、と願ったからだ。だが二十年後、進路推薦AIの解析報告を見て後悔した。「汐」という字は内向性の予測値を上げ、幼少期から安全な選択肢ばかり提示していたという。娘は陶芸家になり、町を出なかった。澪佳は、娘が土をこねる背中を「消極的」と決めつけていたが、改変前の記憶をたどれば、娘は大きな窯を自分で建て、売れない器を何年も作り続けていた。それも十分に挑戦だった。進路AIの説明を信じた母が、娘の静けさへ勝手に低い点をつけただけだった。
更新後の記録では、幼稚園の時点から競争型の教室へ振り分けられ、失敗を恐れない行動が高得点として強化されていた。
澪佳は過去修正AIで、出生届の一字を「潮」へ変えた。外向性と挑戦傾向が高く評価される字だった。
更新後、娘は月軌道船の船長になっていた。翌日、木星圏への片道探査へ出発する。世界中が彼女を勇敢な若者として称えていた。
澪佳の家からは、娘が作った不格好な茶碗が消えていた。代わりに、無重力訓練の賞状が並んでいた。娘は母を抱きしめたが、澪佳の知っている抱き方ではなかった。
「どうして泣くの?」
「あなたは、土を触るのが好きだった」
「私、土で手が汚れるの嫌いだけど」
澪佳は、目の前の娘を偽物だと思いかけた。だが偽物にしたのは自分だった。一字で未来を誘導できると信じ、元の娘も今の娘も、自分の願いに合う人格として見ていた。
過去修正AIは、出生届を戻せば出発は消え、娘は町の工房へ戻ると告げた。ただし現在の娘の二十七年は上書きされる。
澪佳は取消をしなかった。出発の日、娘に一つだけ尋ねた。
「あなたは、その名前が好き?」
娘は首を振った。
「船では字が説明しにくいから、みんなにミオって呼ばせてる」
澪佳は笑った。自分が選んだ二つの字の、どちらでもない呼び名だった。
発射台で、澪佳は「潮」でも「汐」でもなく、「ミオ」と呼んだ。娘は振り返り、自分で選んだ名前に、自分で選んだ笑顔を返した。
過去を一字変えれば人生は変わる。だが人生の持ち主まで、親が書き直してよいわけではなかった。