四月から他人
〈共同生活終了確認書〉の最後には、三人分の署名欄があった。
宇佐美梨央が先に書き、戸塚尋が続き、真壁空良はペンを持ったまま止まった。
「これ、離婚届みたい」
空良が言う。
「結婚してないから、こういう紙が要るんでしょ」
梨央は鍵の数を確認した。
三人は大学一年から同じシェアハウスに住んだ。恋人でも家族でもない。ただ、家賃と朝食と、帰る場所を共有した。誰かが熱を出せば薬を買い、失恋すれば壁越しに音楽を流した。説明できない関係は、契約終了日を境に、簡単に「元同居人」へ変わる。
「グループチャット、残す?」
尋が聞いた。
「残して何送るの」
梨央は四月から県庁。尋は大学院で北海道へ行く。空良は恋人と暮らしながら、舞台衣装の工房で働く。
「雪の写真とか」
「県庁の昼休みとか」
「衣装の失敗作とか」
三人とも、送る場面を想像できた。返信が少しずつ遅れ、誕生日だけスタンプが付き、やがて機種変更で誰かが消えるところまで想像できた。
「消そうよ」
梨央が言った。
尋は驚いた顔をする。
「嫌いになった?」
「逆。嫌いにならないうちに終わらせたい」
空良が署名した。
「私は残したい」
「じゃあ残す」
「梨央、すぐ譲るね」
「多数決なら二対一」
「尋まだ言ってない」
尋はペンのキャップを転がした。
「俺は、どっちでも傷つく」
三人は笑った。そういう答えを言えるのも、この家の中だけだった。
最後の確認書へ、〈残置物なし〉と印を付ける。だが洗面所には梨央のヘアピン、台所には尋のマグカップ、玄関には空良の古いスニーカーが残っていた。誰も指摘しなかった。全部なくなれば、本当に契約だけの関係だったことになる気がした。
退去後、空良がグループ名を〈四月から他人〉に変えた。
梨央
縁起悪い。
尋
正確ではある。
空良
他人になっても、知ってる他人だから。
既読が三つ並び、それきり誰も送らなかった。
空の家では、三人の名札を剥がした郵便受けに、細いテープ跡が残った。名前は消えても、三つの四角だけが同じ高さで並び、誰かがここで他人になる練習をしていたことを示していた。