固まらない白

津田麻由の前に、固まらなかった杏仁豆腐が置かれた。

友人は冷蔵庫から取り出したガラスの器を傾け、「飲み物になった」と言った。白い液体はスプーンからすぐ流れ落ちる。器は指先が痛くなるほど冷たく、底へ当たるたびスプーンが小さく鳴った。

麻由は一か月、友人の部屋に住んでいる。

会社を休職し、自分の部屋へ一人で戻れなくなったからだ。朝になると息が速くなり、玄関の鍵へ手を伸ばせない。友人には、薬が合えばすぐ戻れると話していた。

来週が復職予定日だった。上司にも母にも、体調は落ち着いたと連絡した。職場から届いた復帰面談の案内へも、問題ありませんと返信した。けれど昨日、会社の最寄り駅まで練習に行き、改札の前で動けなくなった。友人には散歩をしてきたと嘘をついた。帰宅後も靴を脱げず、玄関で十分座っていたことは隠した。

復職を延ばせば、契約を切られるかもしれない。休み続ければ、友人の生活を占領する。友人はいつまでいてもよいと言うが、その言葉を信じれば甘える人になる気がした。だから固まっていない自分を、できあがった形として職場へ戻すしかないと思った。予定通りに戻ることだけが、世話になった一か月を返す方法だった。

麻由は白い液体を一匙すくい、飲んだ。味は杏仁豆腐なのに、噛むものがない。二匙目も、形のないまま喉へ落ちた。

友人は失敗の理由を説明せず、器を下げようともしない。

半分ほど飲んだところで、麻由はスプーンを立てようとした。すぐ倒れ、器の縁へ当たった。その音を聞いて、復職届を鞄から出す。

裏返し、余白へ〈延期を希望します〉と書いた。字は途中で震えた。

「また、固まらなかった」

杏仁豆腐のことにも、自分のことにも聞こえた。

友人は「冷やす時間を延ばそう」とだけ答えた。会社のことか、杏仁豆腐のことかを確かめず、冷蔵庫の空いている段をもう一度示した。麻由の薬と書類が置かれている場所だった。

麻由は最後の一匙を残し、器へラップをかけた。明日になっても固まらないだろう。それでも、液体のまま捨てる必要はなかった。

復職届ではなく、延期の申請画面を開く。理由の欄には、回復が不十分と書いた。送信したあと、冷たい器を友人の冷蔵庫へ自分で戻した。

友人の家に居続ける期限は決めなかった。代わりに、明日は自分が夕食を作ると予定表へ書いた。完成した人になる約束ではなく、固まらないまま一日を分け合う約束だった。