塩の降るししゃも
南條祐介が保育園の迎えに間に合わなかったのは、今月で三度目だった。
妻からの連絡には、「もう迎えた。寝かしつけるから電話しないで」とだけあった。朝、娘は祐介の鞄を指して「きょう、はやい?」と聞いた。祐介は頷き、その約束を昼まで覚えていた。祐介は会議室でその文を読み、上司の「子どもが小さいうちは大変だな」という軽い笑いに、曖昧に笑い返した。本当は大変なのは妻のほうで、祐介は約束を破るたび、その大変さを渡しているだけだった。
迎えを頼まれた日は、早く帰るつもりだった。机の端には、娘が朝に貼った星形のシールもあった。けれど十七時半に資料の修正を頼まれ、「無理です」と言えないまま二十二時になった。
家へ直行する気になれず、祐介は商店街の居酒屋へ入った。客は彼一人だった。ししゃもの塩焼きを頼む。
網の上で細い腹がぱちりとはぜ、皮が銀色から薄い茶色へ変わった。煙に混じった海の匂いが店内へ流れ、皿のししゃもには粗い塩が白く残っている。
祐介は尾からかじった。皮の薄い苦みと、腹の濃い旨みが続いた。
「頭、残します?」
店主が聞いた。
「いつも残します」
「今日は?」
祐介は少し迷い、頭まで噛んだ。骨が細かく砕け、苦さが強くなった。
明日の朝、上司へ相談する。毎週水曜は保育園の迎えがあるため、十七時半以降の依頼は翌日に回す。緊急時の代替担当を決め、その代わり別の日の締め作業は引き受ける。お願いではなく、仕事の組み方として提案する。
断られるかもしれない。周囲に迷惑をかけると言われるかもしれない。妻がすぐに信じてくれるとも思えない。三度の遅刻は、来週一度間に合うだけでは消えない。妻が予定を任せるまでには時間がかかるだろうし、娘はまた疑うように鞄を見るかもしれない。
それでも、迎えに行きたいと思っているだけでは、保育園の時計は止まらない。家庭を理由に謝り続けるより、先に仕事の境界を作るほうが、同僚にも誠実なはずだった。
最後のししゃもを頭から食べると、塩が唇の小さな傷へしみた。腹の熱はわずかだったが、苦い旨みは舌の奥へ長く残った。