壁に残した一本
鳴海礼央の部屋には、画鋲の穴が百個近くあった。
写真、ライブのチケット、仕事の企画書。三年間貼り続けたものを、退去前日にすべて剥がした。転職が決まり、会社の寮へ入る。シェアハウスの住人とは、ここ数か月ほとんど顔を合わせていなかった。
敷金を守るため、真鍋宗一郎が補修材を持ってきた。
「穴、埋めるぞ」
「自分でやる」
「その量を?」
「俺が開けた」
礼央は白いパテを指先につけ、一つずつ穴へ押し込んだ。宗一郎は余分をカードで削る。二人は以前、同じ会社を辞めてこの家へ来た。礼央だけが再就職を決めてから、宗一郎は露骨に距離を置いた。
「寮、家賃いくら」
「一万五千」
「勝ち組」
「そういう言い方やめろ」
「冗談だろ」
パテが乾くまで、壁から剥がした紙を仕分けた。捨てるもの、持っていくもの。共有旅行の写真が出てきた。宗一郎は端で目を閉じ、礼央は転んで泥だらけになっている。
「これは捨てる」
礼央が言う。
「好きにしろ」
宗一郎は補修用の白ペンを強く振った。中の球が乾いた音を立てる。
最後の一列に、少し大きな穴があった。共同玄関のスペアキーを吊るすフックを、礼央が勝手に移設した跡だ。二人で壁材を詰めても、凹みが残った。
「上から何か掛ければ隠れる」
宗一郎が言った。
「退去確認で外せって言われる」
「お前の部屋、次の入居者が決まるまで共用にするらしい」
「じゃあ、なおさら私物は残せない」
宗一郎は床の写真を一枚拾った。全員が台所で餃子を包んでいる。礼央は写っていない。撮影者だったからだ。
「これなら共用品だ」
「誰が決めた」
「今、決めた」
乾いた壁へ小さなフックを一本だけ戻し、写真を掛けた。百個の穴は消えたのに、その一本だけ新しい影を作る。
翌朝、礼央は段ボールを運び出した。机も布団もなくなった部屋で、写真だけが揺れている。
宗一郎は見送りに出なかった。玄関の共有鍵掛けには、礼央が返すはずの鍵の場所が空いている。礼央は鍵を外そうとして、手を止めた。
代わりに寮の住所を書いた紙を、写真の裏へ挟む。
「荷物、間違って届いたら送って」
宗一郎は廊下から答えた。
「着払いでな」
礼央は鍵を返却箱へ入れた。それでも玄関を出る前、補修材の残りを共同棚へ置いた。ラベルには〈次に穴を開けた人用〉と書き、その下に新しい住所を小さく残した。