夕方六時の町内放送
海辺の町では、夕方六時の放送が、ときどき人の名前を一つ読み上げた。
その名を聞いた住民は、午前零時になると、その人を忘れる。
理由は誰も知らない。
放送で自分の名が呼ばれた男は、残り六時間をどう使うか考えた。
家へ帰る。
妻は夕食を作り、娘は宿題をしている。
二人は放送を聞いていたが、何も言わない。
泣けば時間が減る気がした。
男は写真へ説明を書いた。
「中央の男は夫・父」
銀行や保険の手続きをまとめ、好きな料理の作り方を録音した。
妻は怒った。
「残す物ばかり作らないで」
「忘れるんだぞ」
「だから今、食べて」
三人で夕食を食べた。
娘は男の嫌いな人参を皿へ入れた。
いつもの喧嘩をした。
妻は洗い物を頼み、男は面倒だと文句を言った。
十一時半、海へ散歩した。
娘が尋ねる。
「忘れたら、もう好きじゃない?」
男は答えられなかった。
「好きだったことを思い出せなくても、明日会ったら、また好きになるかもしれない」
妻が言った。
「ならないかも」
「そのときは、また困らせて」
零時。
妻と娘の顔から、男を知る表情が消えた。
「どちらさまですか」
妻が震える声で聞く。
準備した説明書を渡そうとして、男はやめた。
二人へ、記憶どおりの役を強いるように思えた。
「近所に住む者です。少し長く、あなたたちを知っています」
男は家を出た。
翌朝、妻が玄関の前に立っていた。
説明書を読んだらしい。
「夫だった証拠はたくさんあります」
「はい」
「でも、すぐ信じられません」
「はい」
「夕食、食べますか。人参が余ってるので」
男は毎日、家へ通った。
妻とは他人の距離から話し、娘の宿題を手伝った。
娘は一週間後、
「父だった人」
と呼んだ。
一か月後、
「お父さん、と呼んでみてもいい」
と言った。
記憶は戻らない。
妻は以前と同じ人を好きにならず、違うところで笑い、違うことで腹を立てた。
男も、昔の妻を取り戻そうとするのをやめた。
一年後、町内放送で別の名が呼ばれた。
家族三人は、その人の家へ食事を持っていった。
忘れる前に英雄扱いするためではない。
忘れた翌日にも、もう一度扉を叩けると伝えるために。
町は人を忘れる。
それでも関係は、記憶だけでなく、翌朝の訪問からも作り直せた。