夜勤を溶かす入浴剤
宵山結仁の入浴剤は、温泉へ入らなくても温泉の匂いがする。
山小屋の地下には五色の鉱塩があり、水滴が落ちるたび自動臼が少しずつ削る。森薄荷、柚子皮、眠り花の粉が注文札に合わせて加わり、布袋へ詰められる。宿屋や共同浴場へ月ごとに届き、使用料は結仁の財布へ静かに積み上がる。
彼は湯守だった頃、湯に浸かったことがほとんどない。
老舗宿の紺の制服は膝が白く、帯の端は濡れて毛羽立っていた。夜中に湯温を測り、客が眠れば浴槽を磨き、夜明け前にまた湯を張る。退職後の通信札には『特別客到着』『露天風呂温度低下』が未読で十八件光っていた。
月末、地下臼の横で水晶が温かくなる。
《定期契約十一軒、更新完了。今月分の収益を送金》
町の宿ほど派手な額ではない。それでも一日一回、好きなだけ薪を焚き、自分用の湯を張れる。
桶へ入浴剤を一袋落としたところで、元支配人から通信が来た。
『今夜、侯爵一家が来る。湯加減にうるさい。お前でなければ任せられん』
「任せられる人を育ててください」
『一晩だけだ。恩返しと思え』
「十年分の夜勤で返しました」
『高い部屋を用意する』
結仁は湯気の向こうの空の浴槽を見た。客室などいらない。今、自分のためだけに空いている湯がある。
「今夜の私は客です。自分の湯を優先します」
通信札を脱衣籠の底へ入れ、音を切った。地下では臼が規則正しく塩を削っている。
宿を辞めた直後、結仁は湯へ入っても十分で上がった。長く浸かれば客に呼ばれる、湯温が変わる、誰かが転ぶ、と体が警戒した。山小屋には客はいないのに、脱衣所の物音へ耳を澄ませた。自動臼の最初の収益で砂時計を買ったが、すぐ棚へしまった。自分の湯に終了時刻は要らない。入浴剤は客の疲れを溶かしながら、少しずつ彼の夜勤の癖も溶かしていった。湯がぬるくなったら薪を足してもいいし、そのまま上がってもいい。決めるのは支配人ではなく、湯の中の自分だった。
結仁は肩まで湯へ沈み、足を伸ばした。湯面が縁から少しこぼれたが、拭きに立つ者はいない。彼も立たなかった。