夜行フェリーの毛糸玉
舟守乃々香は、恋人と暮らすはずだった家を売却したあと、夜行フェリーへ乗った。
内覧のために何度も掃除した部屋は、最後の日、モデルルームのように何もなかった。
家具も人もいない床を見ていると、自分の数年間まで売り渡した気がした。
船室は相部屋だった。
向かいの寝台には、毛糸を編む年配の女性がいる。
乃々香が挨拶すると、女性は編み目を数えながら「こんばんは」と答えた。
会話はそれで終わった。
出港すると、船が低く震えた。
乃々香は眠れず、共有ラウンジへ行った。窓の外は真っ暗で、海も空も区別できない。
しばらくすると、女性も毛糸を持って来た。
「何を編んでるんですか」
「膝掛け。去年から」
「長いですね」
「ほどいたから」
女性は端を見せた。色の違う毛糸が途中からつながっている。
「気に入らなかったんですか」
「夫と二人で使う幅にしたけど、去年亡くなってね。一人には大きすぎた」
乃々香は謝ろうとしたが、女性は先に笑った。
「だから半分ほどいて、細くした。余った毛糸は靴下になる」
悲しい話なのに、毛糸は明るい橙色だった。
乃々香は、自分も共有の食器や大きなソファを処分したことを話した。
「二人用を一人用にするの、寂しくないですか」
「寂しいよ。でも一人の膝が温まらないよりいい」
自動販売機でコーンスープを二つ買った。
缶を開けると、甘い湯気が上がる。
船は時々揺れ、女性の毛糸玉が卓の端へ転がった。乃々香が拾い、しばらく糸を持つ。
引っぱりすぎると編み目が固くなるので、軽く送るだけでよいと教わった。
夜明け前、膝掛けは二段ほど伸びた。
乃々香の人生は何も決まっていない。
売った家の代わりも、新しい恋も、急いで探すつもりはなかった。
まず今の部屋に、一人用の椅子を買おうと思った。大きなソファの空き半分を見なくて済む椅子だ。
港が近づくと、窓の外へ薄い青が戻った。
女性は余った毛糸を小さく丸め、乃々香へ渡した。
「何か編めなくても、瓶へ入れたらきれいよ」
下船後、乃々香は売店で温かなパンを買った。
バターの香りと海風が混じる。
鞄の中では橙色の毛糸玉が、売った家から持ち出せなかった夕日のように、柔らかく丸まっていた。