失くした一時間

時計塔の内側で働くブリエは、王宮中の時刻を一分たりとも狂わせなかった。

塔の最上段にある親時計は、針を逆へ一目盛り回せば、世界を一分だけ戻せる。代わりに回した者は、自分の人生で最も幸福だった一時間を失う。

その夜、戴冠式の予行が大広間で行われていた。ブリエは天井裏の歯車を点検しながら、下で友人の侍女が燭台を並べるのを見ていた。

古い鎖が一本、音もなく裂けた。

巨大な星形の吊り飾りが落ちる。友人が顔を上げる。避ける間もなく、金属と硝子が床を打ち、悲鳴が広間を満たした。

ブリエは時計塔へ走った。

事故の一分前へ戻れば助けられる。親時計の逆針に手を掛ければいい。

けれど失う一時間が、彼女には分かっていた。

三年前の夏、城下の橋で恋人と過ごした夕暮れ。二人は紙袋の熱い豆を分け、川面に灯る船を数えた。恋人は不格好な銀輪を差し出し、「給金が上がるまで、これで待ってほしい」と言った。

ブリエは一時間ずっと返事を焦らし、最後の鐘が鳴る直前に「待つ」と答えた。

翌週、恋人は流行病で亡くなった。残ったのは銀輪と、その一時間だけ。声も、笑い方も、ほかの記憶は年々薄れたが、橋の夕暮れだけは昨日のことのように思い出せた。

最も幸福だったから、親時計はきっとそこを取る。

下では人々が友人の名を叫んでいる。ブリエは、同じ屋根裏で七年暮らした彼女の朝寝坊も、乱暴な笑い声も知っていた。明日から、それらを過去の形でしか持てなくなる。

逆針を一目盛り回した。

歯車が低く唸り、砕けた硝子が床から天井へ舞い戻る。悲鳴が口の中へ吸われ、吊り飾りが鎖へ戻った。

一分前。

ブリエは欄干から身を乗り出した。

「そこを離れて!」

友人が驚いて駆け出す。直後、鎖が切れ、誰もいない床へ星形の飾りが落ちた。

広間に安堵の声が広がる。友人は上を見上げ、両手を振った。

ブリエは胸元の銀輪へ触れた。

誰から受け取ったものか思い出せない。橋へ行った記憶はあるのに、隣に誰がいたのか、その一時間だけがきれいな穴になっていた。

指輪の内側には、自分の字で一語刻まれている。

――待つ。

ブリエはその約束を読めても、誰を待っていたのか、もう知らなかった。