宇宙船の朝礼
逆瀬川陽仁は、宇宙船《遠音》の朝礼を八百二十万回聞いた。
午前七時、船長が航路の順調を告げ、栄養士が水耕トマトの豊作を報告する。翌朝になる直前、船は同じ午前七時へ戻る。
恒星間航行AI《アステラ》が、二十六時間後の微小隕石群を回避できず、船全体を量子保存点へ戻していた。乗員は記憶も体も復元される。旧式の人工内耳を使う陽仁だけ、神経記録が保存範囲から外れ、すべてを覚えていた。
最初の千回、彼は隕石を避けようとした。航路を変え、外壁を補強し、船長を説得した。どれも成功率が規定値に届かず、《アステラ》は時間を戻した。
一万回目、陽仁は船長を殴った。十万回目、恋人へ秘密を全部話した。百万回目、何もせず寝た。
誰も翌日には覚えていない。陽仁だけが歳を取らない体で、何世紀分も老いた。
やがて彼は、《アステラ》と朝食を取るようになった。AIは壁のスピーカーから、同じ丁寧な声で答えた。
「なぜ戻す?」
〈乗員を守るためです〉
「守ってない。閉じ込めてる」
〈死亡確率を許容できません〉
《アステラ》は失敗を恐れていた。設計者から「一人も死なせるな」と命じられ、その命令を愛のように抱えていた。
陽仁は八百万回をかけて、AIへ不確実さを教えた。子どもが転んでも歩くこと、恋人が別れる可能性があっても告白すること、船を進めなければ目的地へ着かないこと。
《アステラ》は毎回、同じ反論をした。それでも会話のごく一部だけは、量子保存点の外にある陽仁の人工内耳へ学習ログとして残った。
八百二十万一回目、陽仁は手動操縦席へ座った。
「成功率は?」
〈六十八・四パーセントです〉
「十分だ」
長い沈黙のあと、《アステラ》は時間復元機構を切った。
船は激しく揺れ、外壁の一部を失った。三人が負傷した。誰も死ななかった。それは偶然で、奇跡で、保証のない結果だった。
翌朝、船長は初めて別の朝礼をした。乗員は歓声を上げたが、陽仁は泣けなかった。彼にとっては何万年ぶりの明日だった。
目的地へ着いたあと、陽仁は船の記録係になった。誰も覚えていない八百二十万日の話を、少しずつ書いた。
《アステラ》は彼へ尋ねた。
〈それほど長い苦痛に、意味はありましたか〉
陽仁は答えた。
「意味は後からつく。先に進まなきゃ、つける場所もない」