小籠包の最初の穴

樫村陽平は、明日から海外向けの顧客支援チームで働く。所属先は日本だが、直属の上司はシンガポール、同僚の半分は英語しか話さない。

 内定を報告した友人は、『樫村なら余裕だろ』と言った。陽平も笑って頷いた。試験の点数を知る人ほど、会議で固まる自分を想像しない。その期待を壊したくなくて、入社準備の相談もできなかった。

 陽平の英語試験の点数は高い。メールも読める。面接も準備した回答で通った。問題は、相手が予定にないことを話し始めたときだった。前職のオンライン会議では、分からなくても頷き、終わってから録画を見直した。その癖を面接官には話していない。

 会社から届いたヘッドセットは、机の上でまだ箱に入っている。開封すれば後戻りできないような気がして、陽平は今夜まで触れなかった。

 明日の最初の会議で自己紹介をする。陽平は全文を英語で書き、発音記号まで振った。質問を受けたら笑って『Yes, exactly』と言うつもりだった。何が正確なのか分からなくても。

 居酒屋「蒸気」で、店主は鉄板に焼き小籠包を並べ、水を注いで蓋をした。中でぱちぱちという音がこもり、蓋を開けると白い蒸気が一気に上がった。胡麻油と生姜の香りが広がり、底にはきつね色の焼き目がついている。

 店主は箸で皮へ小さな穴を開けた。

「最初に穴、開けるんですね」

「そのまま噛むと熱い」

 陽平は自己紹介原稿の余白へ、一文を書いた。

『Could you say that again more slowly?』

 知っている表現だった。だが、使ったことはほとんどない。聞き返せば英語力が足りないと分かる。採用が間違いだったと思われるかもしれない。それでも分かったふりをして顧客の要望を取り違えるよりは早い。

 明日の会議で一度でも聞き取れなければ、この文を使う。使う場面がなくても、机の横へ貼る。流暢に見せることではなく、間違って理解しないことを最初の仕事にする。

 小籠包の穴から湯気が細く抜けた。陽平は少し待ってから口へ運んだ。それでも中のスープは熱く、生姜の辛さと肉の甘みが一緒に舌へ広がった。