山の音が三度したら
雪山の伐採地で、遠くから低い音が二度響いた。
父の泰蔵は斧を肩に担ぎ、白い斜面を見上げる。
「山鳴りは二度なら、雪が締まる合図だ」
玲久は、前の人生で聞いた三度目の轟きを思い出した。
父の言葉を信じ、二人は作業を続けた。数分後、斜面が丸ごと崩れた。泰蔵は息子を石小屋へ突き飛ばし、自分は雪に呑まれた。見つかったのは春だった。
玲久は山岳救助隊に入り、雪崩の前兆を誰より学んだ。多くの遭難者を連れ帰っても、父の懐中時計が止まった十一時四十三分だけは救えなかった。
三十年後の遭難で意識を失い、目覚めたのが今朝だ。
「山鳴りは二度なら、雪が締まる合図だ」
「三度目を待たない。石小屋へ戻る」
以前とは違う返答に、泰蔵が眉をしかめる。
「まだ一列残ってる」
「木は来年も生える。父さんは一人しかいない」
前の人生では、照れくさくて一度も言えなかった言葉だった。泰蔵は目をそらし、その一瞬の戸惑いを玲久は逃さなかった。
玲久は父の斧を奪い、荷綱を腰へ結びつけた。腕力では敵わなくても、結び方も退避経路も未来で身につけている。父を半ば引きずるように石小屋へ入れ、扉へ丸太をかませた。
扉が閉まった直後、鳥の群れが谷から一斉に飛び立つ。
三度目の山鳴りが来た。
白い壁が窓を覆い、外に残した橇を一瞬でさらっていく。丸太も斧も、父が立っていた場所ごと消えた。小屋は軋んだが、二人の呼吸は途切れない。
静けさが戻るまで、泰蔵は息子をかばうように覆いかぶさっていた。前の人生と同じ姿勢なのに、今度は二人とも生きている。玲久は笑いと嗚咽を同時に飲み込み、父の胸ポケットから懐中時計を取り出した。
十一時四十三分。
前の人生で止まった長針が、かちり、かちりと先へ進む。
泰蔵は雪まみれの息子を見て、低く笑った。
「いつの間に、俺より山を知った」
「父さんがいない三十年で」
「なら、その三十年は返してもらわんとな。まず来春、麓の温泉へ連れていけ」
父が初めて口にした老後の取り立てを、玲久は喜んで一生かけて払うことにした。