左手だけの小節
大庭佳苗が古書喫茶「左手」の楽譜棚で見つけたのは、古いピアノ小品集だった。
最初の数曲には左右両手の指番号が丁寧に書かれている。ところが中ほどから右手の音符が薄い鉛筆で消され、左手だけで旋律と伴奏を拾う運指へ直されていた。
「届かない和音は一音捨てる」
「旋律を先に」
「休符も曲」
最後の頁には、震えた字で「片手になって、また最初の一曲」とある。
佳苗は一年前、右手首を痛めてピアノ教室を辞めた。日常生活には困らないまで回復したが、長く弾くと痺れる。来月、親しい友人の小さな結婚式で一曲弾いてほしいと頼まれ、「両手で弾ける自信がない」と断る文面を作っていた。
友人は簡単な曲でいいと言った。それでも佳苗には、以前より少ない音で人前へ出ることが、壊れた演奏を見せるように思えた。断れば、昔の自分だけをきれいに残せる。
閉店間近、店主は店内のレコードを交換した。針が落ちると、佳苗が頼まれたのと同じ曲が流れた。ただし有名な両手の編曲ではなく、低い音域だけで旋律をたどる演奏だった。音と音の間が広く、ときどき原曲の和音が丸ごとない。
店主は曲名を言わず、楽譜の会計を続けた。頁をめくり、右手の音符が消された箇所も欠損とは扱わない。包装前、左手用の運指が始まる頁へ、細い紙を二本ではなく一本だけ挟んだ。
佳苗は友人への下書きを消した。
「左手中心の短い編曲なら弾ける。三分くらいでもいい?」
返事はすぐ来た。「もちろん」のあとに、音符の絵文字が一つだけついている。佳苗は楽譜の余白へ、左手で拾う旋律の最初の五音だけを書き写した。以前の運指を再現するのではなく、今の手が届く順番で番号を振った。
店主が針を上げるまで、曲は最後の和音へ向かわなかった。途中で一音抜け、長い休符があり、それでも旋律は戻ってきた。
佳苗は包みの上から左手を置いた。右手は鞄の持ち手に添えるだけにする。
完全に弾ける日を待つのではなく、今ある音で三分を作る。店を出るとき、曲の最後に残った低い一音だけが、閉じた扉の向こうから聞こえた。