帰る家の入力欄
風花は配車アプリの行き先欄を開いた。
候補の一番上に〈実家〉と表示される。住所は、今座っているこの家だった。
「タクシー、あと五分」
居間へ声をかけると、父がテレビから目を離した。
「駅まで送ると言ってるだろ」
「大丈夫。呼んだから」
母はみかんの皮をむきながら、「ここは帰る家なのに、ずいぶん他人行儀ね」と言った。
一泊のあいだ、二人は何度も同じ言葉を使った。帰る家。いつでも戻れる家。だから合鍵は持っていなさい、古い服は置いていきなさい、住所は変わっても本籍はここでしょう。
風花はアプリの登録場所を編集した。
〈実家〉の文字を消し、〈父母宅〉と入力する。
「何してるの」と母がのぞき込む。
「名前を変えた」
「わざわざ?」
「私が帰る家は、今住んでる部屋だから。ここは二人に会いに来る家」
父がリモコンを強く置いた。「育った家を、そんな事務的な呼び方にするのか」
「育ったことは消えない。でも、帰る先は増えたり変わったりするよ」
「親を捨てたみたいに聞こえる」
風花はスマートフォンを伏せず、更新された表示を二人にも見えるように置いた。
「捨てるなら住所ごと消す。名前をつけ直して、残すんだよ」
母の手から、みかんの白い筋が一本落ちた。
外で短くクラクションが鳴る。父は立ち上がらなかったが、母は玄関までついてきた。
「着いたら連絡する?」
「明日の昼にする。今夜はしない」
母は何か言いかけ、飲み込んだ。「じゃあ、明日」
風花は靴を履き、アプリの画面を確認した。出発地は〈父母宅〉、目的地は駅。そこから先の切符には、今の自宅の町が印字されている。
父は最後まで玄関へ来なかった。けれど車に乗る直前、母が差し出した紙袋には、みかんが二個だけ入っていた。いつものように一箱ではない。『これなら持てるでしょう』と母が言う。風花は袋を受け取り、『うん、これなら』と答えた。
タクシーの扉が閉まる直前、母が「また来て」と言った。
風花は「会いに来る」と答えた。
似た言葉の間に、自分の帰る場所を置いた。