幸福な証人
夜久野紫枝は、事件を目撃した翌朝から幸福だった。
駅で男が人を刺すのを見た。血の色も、倒れた人の息の音も覚えている。だが自治体の即時外傷処置で恐怖と悲嘆を遮断されたため、悪夢も震えもなかった。
紫枝は唯一、犯人の顔を正面から見ていた。裁判では重要証人になった。ところが弁護人は、彼女の穏やかな態度を疑った。
「凄惨な事件を見たのに、よく眠れたのですね」
「処置を受けました」
「あなたの記憶も感情と一緒に加工された可能性は?」
専門AIは記憶の保存を保証した。それでも裁判員たちは、微笑みながら刺傷場面を語る紫枝に戸惑った。証言後、ネットには「幸福そうな偽証者」と書かれた。
被害者の母からも手紙が届いた。
〈息子の死を、そんな顔で話さないでください〉
紫枝は初めて、処置を受けたことを後悔した。悲しめない自分が被害者を侮辱しているように思えた。医師に感情の復元を求めると、危険だと止められた。
「あなたが苦しんでも、亡くなった方は戻りません」
「でも、苦しまない私の言葉は誰にも届かない」
再審の日、紫枝は限定復元を選んだ。証言台へ立つ十分前、遮断されていた感情が解除された。
床の光が血に見えた。傍聴席の咳が被害者の息と重なった。膝が震え、裁判官の質問が遠くなった。紫枝は後悔した。真実を語るために、もう一度事件の中へ戻る必要などなかったのではないか。
それでも、犯人を見た瞬間のことを話した。男の顔ではなく、刺した直後に自分の手を見ていたこと。驚いていたこと。そこだけは、幸福だったときにも変わらなかった記憶だった。
証言を終えると、紫枝は廊下で泣き崩れた。被害者の母が通りかかり、しばらく立っていた。
「前のあなたを責めて、ごめんなさい」
「私も、悲しまないと信じてもらえないと思って」
母は首を振った。
「あなたの苦しさは、息子の証拠じゃない」
判決は有罪となった。決め手は防犯記録の解析で、紫枝の涙ではなかった。
彼女は再び感情遮断を受けたが、今度は完全には消さず、治療者と調整した。事件を思えば胸は痛む。それでも電車に乗れる程度の痛みだった。
紫枝は証人支援制度の改善活動に加わった。法廷で感情を示せない人も、示しすぎる人も、同じように事実を語れる仕組みを求めた。
真実は泣き方で量るものではない。彼女はそのことを、泣けない自分と、泣き崩れた自分の両方から学んだ。