後輩ではなく

「先輩は、先輩ですから」

井筒圭吾は、村瀬茉莉が「もう敬語をやめたら」と言うたび、そう返した。

茉莉が新人だった彼を指導して三年。今では圭吾のほうが大きな案件を任され、困ったときに助けられるのも茉莉だった。それでも彼は「村瀬先輩」と呼び、帰り道でさえ半歩後ろを歩いた。

好かれている気がする。自分も好きだ。けれど先輩という立場で応えれば、彼の遠慮につけ込むようで怖かった。

昇格発表の日、圭吾は茉莉と同じ主任になった。社内ポータルに並んだ二人の名前を見た瞬間、茉莉はうれしさより先に、もう彼を後輩という言葉で守れないのだと思った。

夕方の表彰会場で、彼は慣れないネクタイを何度も直している。茉莉は見かねて正面へ立ち、結び目を整えた。

「主任になっても不器用ね」

「そこは指導をお願いします」

「まだ先輩扱い?」

「今日までは」

圭吾は胸ポケットから、新しい名刺を一枚出した。役職欄には茉莉と同じ〈主任〉。その裏に、今夜の店名と予約時刻が書かれている。

名刺の角には、彼が緊張したときだけつける小さな折り目があった。三年前、初めて顧客へ挨拶した日と同じだった。

「昇格祝いなら、部署のみんなと」

「二名で予約しました」

茉莉の指は、彼のネクタイをつかんだまま止まった。圭吾は逃げず、代わりに彼女の手首へそっと触れる。

「これからは、後輩として誘いません」

「では、何として?」

「呼び方から変えてもいいですか」

会場の扉が開き、同僚たちが移動を始める。圭吾は人波から茉莉を守るように手を取り、初めて隣へ並んだ。

「茉莉さん」

「……はい、圭吾さん」

名前を交換しただけで、三年分の段差が消えた。茉莉はネクタイから手を離し、その代わり彼の指へ自分の指を絡める。

「今夜の店、予約変更できます?」

「時間ですか」

「人数は二人のままで。項目を『昇格祝い』から変えたいの」

「何に?」

「それは、店で決めましょう」

圭吾が笑う。その笑顔には、後輩の遠慮がなかった。

先輩は先輩ですから、と彼は何度も言った。

それは越えられない線ではなく、同じ高さに立つ日まで大切にしていた呼び名だった。