忘れたふりの傘
「また傘、忘れたの?」
駅の出口でずぶ濡れの高良健志を見つけるたび、秋津環は呆れて言った。
健志は天気予報を見ない、と環は信じていた。雨雲の通知を送っても既読だけがつき、夕方には決まって駅で濡れていた。梅雨でも鞄に傘を入れず、雨が降れば環の傘へ当然のように入ってくる。身長差のせいで彼が持つことになり、環は空いた手で彼の濡れた肩を払った。
「学習しなよ」
「環がいるから」
「私は傘係じゃない」
「じゃあ、何係?」
「友達」
その答えを言うたび、少しだけ胸が痛んだ。傘の縁から落ちる雫が、二人のあいだに引いた境界線のように見えた。
金曜の夜、朝から大雨の予報だった。環は健志のために折り畳み傘を一本買い、駅で待った。
案の定、彼は何も差さずに現れた。
「今日は貸すから。これで相合傘は終わり」
環が新品を押しつけると、健志は受け取らなかった。
「いらない」
「風邪ひくよ」
「環のに入る」
言い争ううち、健志の鞄が開いた。中には立派な黒い折り畳み傘が入っている。タグも外され、何度か使った跡まであった。
環は黙ってそれを指した。
「忘れてないじゃない」
「うん」
健志は自分の傘を取り出す代わりに、環の傘の柄を握った。空いた手でスマホを見せる。翌日のレストラン、翌週の美術館、月末の花火大会。どれも二名で予約され、相手の欄には《環》とあった。
「傘を忘れないと、駅から一緒に帰れないと思ってた」
告白のような説明は、それだけだった。
環は買ったばかりの傘を健志の鞄へ押し込み、連絡先の《傘を忘れる高良》を《健志》に変えた。その画面を見せてから、彼の手へ指を絡める。
「明日からは、待ち合わせればいいでしょ」
「友達として?」
環は返事の代わりに、三つの予定をすべて承諾した。さらに次の金曜へ《環と健志、駅で》と入れる。
雨の歩道へ出ると、健志が傘を二人の中心へ寄せた。
「また忘れたのって、次も言っていい?」
環はつないだ手を彼のコートのポケットへ入れた。
「傘は忘れなくていい。友達のふりだけ、忘れて」
忘れ物だと思っていた相合傘は、ずっと彼が選んで作っていた帰り道だった。