忘れた顔を守る夢木湯
旅商人ハシュカは、《夢根の宿》へ着くなり娘の肖像を机へ広げた。
「この顔を、明日まで忘れずにいたい」
長距離転移を繰り返す商人には、距離の代償として身近な記憶から薄れる呪いがある。ハシュカは家の匂いも妻の声も失い、最後に残った娘の顔まで輪郭がぼやけ始めていた。明日は三年ぶりの帰郷だ。
女将アヤメは、記憶を戻せるとは言わなかった。
「《夢木湯》で守れるのは、一つだけです。今夜、何を残すか決めてください」
「この肖像だ」
「絵ではなく、あなたの中にあるものを」
湯船には夢木の根が一本沈んでいた。記憶を何でも戻すという偽物が市場に溢れる中、この根は「選んだ一つ以外には触れない」ことで知られる。
ハシュカが胸まで浸かると、湯面に記憶が映る。娘の髪、目、笑った口。だがどれも絵師の描いた肖像と同じで、生きた記憶ではない。
「思い出せない」
焦るほど、肖像の線まで薄くなる。ハシュカは金貨を積むから全部守れと頼んだが、アヤメは首を振った。
「料金を増やしても、一つです。大切なものを選ぶ仕事まで、湯には任せられません」
「顔を正確に覚える必要はありません。間違えても娘さんだと分かる瞬間は?」
ハシュカは目を閉じた。
「帰宅すると、あの子は左の靴だけ脱ぎ忘れる」
湯面に、小さな足が現れた。片方だけ靴を履き、廊下を走ってくる。
「それだ」
夢木の根が淡く光り、その場面を一粒の琥珀色の泡へ閉じ込めた。泡の中で少女は何度も左の靴だけを鳴らす。豪華な肖像より、よほど鮮明だった。泡はハシュカの胸へ沈む。
湯を出ると肖像の細部はまた曖昧になった。それでもハシュカは、失敗したとは言わなかった。
翌日、彼は家の前で成長した少女を見ても、すぐには名を呼べなかった。けれど左足だけ靴を履いたまま飛びついてきた瞬間、迷わず抱きしめた。
三日後、宿へ代金と予約状が届く。
『顔は毎日変わる。だから次は、妻が怒ると鼻をこする癖を守りたい』
アヤメは一つ先の日付に丸をつけた。守る記憶は、また一つだけでいい。
予約帳を閉じた音に続き、玄関の夢木ベルが柔らかく鳴った。