忘れ物が先に越してくる
上月鼓が契約した部屋には、引っ越し前から荷物が届いた。
見覚えのない高級ミキサー、退職届を入れた段ボール、片方だけの子ども靴。最後には、鼓の名前が書かれた離婚届まで床へ落ちていた。
まだ結婚もしていない。怖くなった鼓は、契約解除を求めて〈荷見不動産〉へ行った。
荷見慎は、作業着の腰へラベルライターを下げていた。話を聞くたび、白いテープを一枚ずつ出す。
「予定は、荷物ではありません」
「でも、未来の荷物が来ています」
「未来だと誰が決めました」
慎は部屋で、ミキサーへ『未契約』と貼った。機械は薄くなり、三秒で消えた。退職届も子ども靴も離婚届も、同じラベルで消えていく。
「この部屋は、入居者が『そうなるはず』と思っている人生を先に搬入します。受け取れば、予定が事実に近づく」
「全部、私が望んでるってことですか」
「望みと予想を混ぜないでください」
鼓は交際相手と、来年には結婚する話をしていた。相手の職場に近いこの街へ移り、今の会社は遠くなるから辞める。子どもは二人。料理は鼓が担当する。冗談のように話していた未来が、いつの間にか変更不能の配送予定になっていた。
最後に、古いスケッチブックが押入れから出てきた。家具の図面が何十枚も描かれている。学生時代に捨てたはずのものだった。
慎が『未契約』を貼っても、それだけは消えない。
「故障ですか」
「これは予定ではなく、忘れ物です」
鼓は、家具を作る仕事へ進みたかった。生活が不安定だと諦め、今の事務職に就いた。交際相手にも詳しく話したことはない。
「今さら拾って、どうするんですか」
「忘れ物の使い道まで管理会社へ求めないでください」
慎はそっけない。だが契約済みの部屋を一週間保留にし、代わりに一階が共同工房になった別物件を案内した。家賃差額は、未来荷物の撤去費から相殺するという。
鼓は結婚の予定を白紙にしたわけではない。ただ、引っ越しも退職も一度止め、相手と話し直すことにした。スケッチブックだけを持ち帰った。
事務所を出る直前、床へ古びた旅行鞄が現れた。持ち手には『荷見慎』の札がある。
慎はラベルライターを向けたが、『未契約』ではなく『保留』と打った。
「それも未来の荷物ですか」
「業務上の忘れ物です」
鼓が笑うと、慎は鞄を机の下へ押し込んだ。
「予定は、荷物ではありません」
白いラベルをスケッチブックへ一枚貼る。そこには『持ち帰り』とあった。
「ですが、置いてきたものなら、自分で取りに戻れます」