持っていかない荷物
灯奈は引っ越し前夜、六つ目の段ボールを閉じられずにいた。新しい部屋は今より狭い。それでも、元恋人にもらった古いスピーカー、着なくなったワンピース、いつか学び直すつもりの参考書を捨てられない。一つ手放すたび、過去の自分か未来の可能性まで狭くなるように感じた。今回の引っ越しは、初めて誰かと住むためではなく、自分一人で選んだものだった。それなのに箱の中身は、他人の期待でいっぱいだった。
荷物を減らすために呼んだ出張買取の人は、なぜか旅行者だった。制服ではなく、行き先タグを何十枚も縫いつけたコートを着ている。タグには都市名ではなく、「期待」「説明」「せっかく」「いつか戻る」と書かれていた。足元に鞄は一つもない。
「荷物は?」
灯奈が聞くと、旅人はコートを広げた。
「持たないものだけ、持ち歩いています」
買取できる品を見てもらうはずが、旅人は値段をつけず、白いタグを一枚渡した。
「新居へ持っていかないものを、一つ書いてください。品物でなくても構いません」
灯奈は冗談だと思ったが、旅人はスピーカーの電源を入れ、音の出ないことを確かめただけだった。壊れていると言わず、直せとも言わない。
「何を書けば正解ですか」
「荷造りに正解があるなら、箱はもっと軽いでしょう」
旅人は白いタグを残し、買い取りもせずに帰った。玄関でタグだらけの背中が揺れ、どの地名もないまま階段を下りていく。
灯奈は段ボールの前に座り直した。元恋人から最後に言われたのは、「納得できるように説明して」だった。別れる理由も、転職する理由も、引っ越す理由も、灯奈はずっと誰かが納得する形に整えてきた。説明できない気持ちは、間違っているものとして箱の底へ押し込んだ。
白いタグに「説明」と書く。スピーカーへ結びつけようとして、やめた。これは物の名前ではない。
灯奈はタグを玄関の内側に貼った。段ボールからスピーカーを取り出し、不用品回収の箱へ移す。ワンピースは残し、参考書は一冊だけ入れた。何を残すかは、まだきれいに説明できない。けれど箱の中には、初めて自分で選んだ空間ができた。
最後の箱の蓋を折り込む。灯奈は「説明」を玄関に残したまま、ガムテープを一直線に引いた。