撤収日の風船

 文化祭の翌朝、教室の風船は半分しぼんでいた。

 天井から垂れた糸の先で、赤も青も昨日より低く浮かんでいる。近江奈央は脚立に上り、一つずつ外してごみ袋へ入れた。

「それ、割らないの?」

 下で田所維吹が聞く。

「音、嫌い」

「昨日は平気だったじゃん」

「昨日はうるさかったから」

 今日は校舎が静かだった。廊下には剥がした看板、教室には机の跡。昨日まで何百人も出入りした場所が、急に自分たちだけのものへ戻っている。

 奈央は昨日、後夜祭で維吹に告白するつもりだった。

 けれど当番が延び、ステージは終わり、帰りには友達がずっと隣にいた。言葉はポケットに入れたまま、一晩越してしまった。

「昨日、何か言いかけてなかった?」

 維吹がごみ袋を押さえながら聞く。

 奈央は赤い風船の糸を切った。

「忘れた」

「絶対覚えてる顔」

「田所こそ、後夜祭で探してたでしょ。誰か」

「近江」

 はさみが止まる。

 維吹はしぼみかけた青い風船を指で押した。表面がへこみ、ゆっくり戻る。

「告白される予定だったから」

「誰情報」

「近江本人。昨日の朝、『あとで大事な話する』って」

「それだけで?」

「一日待った」

 奈央は脚立を下りた。

 昨日なら照明があり、音楽があり、言うための舞台があった。今日は制服の袖にほこりがつき、床にはセロハンテープの切れ端。格好のいいものは何もない。

「文化祭、終わったけど」

「うん」

「大事な話、期限切れ?」

 維吹が聞く。

 奈央はごみ袋から赤い風船を一つ取り戻した。まだ少しだけ空気が残っている。

「好き」

 言った瞬間、維吹の持っていた青い風船が破裂した。

 二人とも肩を跳ねさせ、それから笑った。

「今の返事?」

「違う。事故」

「じゃあ返事は」

 維吹は耳を押さえたまま言った。

「俺も。昨日から」

 奈央は赤い風船を割らずに、鞄へ結んだ。

 帰り道にはもう地面を引きずるほどしぼんでいたけれど、それでも捨てなかった。

 華やかな後夜祭ではなく、撤収日の教室で始まったことを、忘れないために。