放流
卒業式のあと、尊と亜沙子は川へ行った。
生物部で育てた鮭の稚魚を放すためだった。
冬の間、二人は毎朝水温を測り、餌を与え、死んだ卵をピンセットで取り除いた。最初は透けるほど小さかった魚たちは、いま銀色の体でバケツの中を回っている。
河原にはまだ雪が残っていた。
「冷たそう」と亜沙子が言った。
「鮭にはちょうどいい」
「私なら戻る」
「戻ったら鮭じゃない」
尊は四月から海辺の大学へ行く。亜沙子は山の町に残り、家の診療所を手伝う。進路が決まってから、二人は未来の話をあまりしなくなった。
バケツを傾けると、稚魚が一匹ずつ川へ滑り出した。
流れに乗って消えるもの。
石陰へ潜るもの。
逆向きに泳ごうとするもの。
最後の一匹だけが、岸辺の浅い渦に取り残された。
亜沙子が手を伸ばす。
「助ける?」
「待とう」
稚魚は何度も尾を振った。前へ進んでは渦に戻される。
卒業式の答辞では、未来へ羽ばたく、と言っていた。けれど羽ばたけば必ず遠くへ行けるわけではない。川にも渦があり、石があり、戻される場所がある。
「海まで行けるかな」と亜沙子が訊いた。
「全部は無理だろ」
「そういうこと、今日言う?」
「嘘つく日でもない」
亜沙子は膝を抱えた。
やがて強い流れが一度だけ岸へ寄った。稚魚はその端をつかみ、銀色に光って渦の外へ出た。
二人は立ち上がった。追いかけたが、すぐ見えなくなった。
「今の、海まで行くと思う?」と亜沙子が訊く。
「行く」
「さっきと違う」
「見たから」
帰り道、亜沙子は卒業証書の筒で尊の背中を軽く叩いた。
「海で会えたら、って言わないの」
「誰と誰が」
「鮭と私たち」
「鮭は顔わからないだろ」
「私も忘れるかも」
「じゃあ目印決める?」
「それは約束みたいで嫌」
二人は笑った。
橋の上から振り返ると、川面は春の光を細かく運んでいた。放した魚は一匹も見えない。
何も見えないことが、ちゃんと進んだ証拠なのだと、あの日の二人は知った。