星を一つだけ消す

初音は眠る前、部屋の灯りを消してからスマートフォンを明るくした。仕事のチャット、ニュース、元恋人の投稿、歩数不足の警告。赤い丸が残っていると、世界のどこかで自分の返事を待つ人がいるようで、全部を開くまで眠れなかった。返信が不要な知らせまで読み、既読をつけたあとで内容を反芻する。枕元の充電器は短く、寝返りのたびコードが引かれた。それでも端末を手放せなかった。

隣室のイネスはブラジルから来た天文学の博士課程で、ベランダに小さな望遠鏡を置いている。停電した夜、初音は廊下で彼女に誘われ、屋上から星を見ることになった。

空には三つしか見えなかった。初音が「東京は明るすぎますね」と言うと、イネスは彼女の手元を見た。通知で顔が青く光っている。

「眠る前、いちばん近い星はどれですか?」

「これ、ですか」

「では今夜、一つだけ消す。全部ではなく、一つ。空を真っ暗にする必要はありません」

イネスは望遠鏡を片づけ、それ以上は説明しなかった。

部屋へ戻ると電気は復旧していた。初音の画面には二十七件の通知がある。仕事用チャットに、上司から「明朝で大丈夫」と書かれた確認依頼。大丈夫と書かれても、初音は今夜返すのが習慣だった。

設定画面を開く。すべてを切れば不安になる。通知の項目は、夜空の星座表のように長く並んでいた。どれも小さいのに、消すとなると自分の役割まで欠ける気がした。元恋人の通知だけを切るのは、まだ見ていることを認めるようで悔しい。健康アプリなら痛くないが、何も変わらない気がした。

一つだけ。

初音は仕事用チャットの「二十一時以降は通知しない」を選んだ。確認画面が、本当にいいのかと尋ねる。指が止まる。

窓の外で、イネスの望遠鏡をしまう金属音がした。

初音は「設定」を押した。赤い丸が一つ消え、画面にはまだいくつもの星が残る。彼女はそれらを開かず、スマートフォンを伏せた。

暗くなった天井に、カーテンの隙間から本物の光が一つだけ落ちていた。初音はそれを確認してから、目を閉じた。