暖簾を下ろす人

藤代家の蕎麦店で、渚沙の名は最後まで表に出なかった。

仕込みも経理も予約管理も渚沙が担ったが、義母の初瀬は「嫁は裏方」と言い、夫の宗介は店の紹介記事から妻の名前を削った。給与を求めれば、家族の仕事に値段を付けるなと叱られた。

渚沙は六年前に店を離れ、自分の小さな惣菜店を開いた。店先には自分の名を小さく掲げ、働いた時間には必ず給与を払った。常連客が増え、今では三人の従業員を雇っている。

初瀬が転倒して歩けなくなると、宗介と義弟が閉店後の渚沙を待ち伏せした。

「母さんを店の二階で看てくれ」

「昼は蕎麦店を手伝って、夜は介護。昔みたいにやればいい」

宗介は悪びれずに言う。

「お前の店は閉めればいいだろ。家の暖簾の方が大事だ」

渚沙は、介護事業者の見積書を渡した。店の二階には階段しかなく、改修と訪問介護を合わせれば多額の費用がかかる。施設入居の方が安全で、費用も抑えられる。

義弟が首を振る。

「施設費のために店を売るなんて絶対駄目だ。渚沙さんが無料で看れば残せる」

「私の店を閉めて、あなたたちの店を残す理由はありません」

義弟は渚沙の従業員にまで「休ませればいい」と言った。

宗介は昔の調子で命じた。

「嫁だろ」

渚沙は離婚成立を知らせる戸籍の写しを置いた。店を離れた翌年には別居し、調停を経て、前月ようやく他人になっていた。宗介は母へ隠していたらしい。

初瀬が奥から歩行器で現れた。

「そんな話、聞いてないよ。じゃあ誰が私を看るの」

地域包括支援センターの担当者が、店の査定書を開いた。宗介たちは在宅介護を誰も引き受けず、初瀬の預金も足りない。本人所有の店舗を売却し、入居費へ充てる計画に、初瀬自身が署名していた。

義弟が暖簾をつかむ。

「これは藤代家の顔だぞ」

買主の不動産会社が入口に立ち、引渡し確認の印を押した。

渚沙の店を潰して守るはずだった暖簾が、その場で初めて下ろされた。