最初の声を残す
冴は、音声を送る前に何度も録り直す。
元恋人が、彼女の声を「眠くなる」と評したからだ。
「抑揚がないし、話が頭に入ってこない。電話向きじゃないよ」
それから冴は、留守番電話にも緊張した。声を高くし、語尾を上げ、明るく聞こえるまで録り直す。友人への短い音声メッセージでさえ、五回は消した。
社内向けの操作説明を、三分の動画にする仕事が回ってきた。顔は映らず、画面に合わせて音声を入れるだけだった。
冴は会議室を借り、一回目を録音した。
冒頭で「ええと」と言い、二分目には一度息を吸う音が入った。最後の製品名も少し平坦だった。
停止ボタンを押すと、いつものように削除へ指が伸びた。
録り直せば、もっと明るくできる。元恋人が聞いても退屈だと言わない声に近づけるかもしれない。
冴は最初の録音を再生した。
自分の声は低く、確かに華やかではない。けれど手順の番号は聞き取れ、画面ともずれていなかった。
削除せず、ファイル名を「完成版」に変えた。
編集画面には声の波形が並んでいた。平らな箇所を見ると、抑揚がないと言われた夜が蘇る。冴は音量を上げたり、息継ぎだけ切ったりしてみたが、直すほど声が別人のものになる気がした。最後に編集履歴を戻し、最初の波形へ戻した。完璧ではなく、手順を伝えられるかだけを基準にした。
上司へ送るとき、「聞きづらければ録り直します」と添えそうになった。その一文も消し、確認依頼だけを書いた。
返信は十分後に来た。「手順三の画面だけ差し替えてください」。声については何もなかった。
冴は画面だけ修正し、音声はそのまま残した。
再生回数の数字も、その夜は確認しなかった。
帰りの電車で動画を開けば、欠点を何度でも探せる。冴はイヤホンを出しかけ、鞄へ戻した。
声が好きになったわけではない。明日また電話の前に練習するかもしれない。
ただその動画には、一回目の「ええと」と息継ぎが残った。冴はそれを消さないまま、更新ボタンを押した。