最後の一枠を閉じる

八木澤深雪の予約表には、閉店後の白い枠がなかった。

美容師になって六年。指名客から「どうしても今日」と連絡が来れば、二十時半でも受けた。予定が埋まっていることは、選ばれている証拠だった。食事が遅くなっても、手首に湿布を貼っても、予約を断るよりはよかった。

年末、深雪は鋏を持つ右手に力が入りにくくなった。落とすほどではない。けれど前髪の一ミリを整えるたび、親指の付け根が鈍く痛んだ。

木曜の十九時五十分、最後の客を見送ったところで、常連からメッセージが届いた。

《急でごめん。明日の撮影前に、今夜カラーだけお願いできない?》

店にはまだ薬剤があり、片づけも終わっていない。受ければ二十二時半には帰れる。深雪は予約画面を開き、閉店後の枠へ名前を入れようとした。

親指が画面に触れた瞬間、痛みが走った。

深雪は手を膝へ置いた。痛いことを理由にすると、技術者として弱い気がした。常連の大事な撮影を困らせる。別の店へ行かれ、そのまま戻ってこないかもしれない。

返信欄へ打った。

《申し訳ありません。本日の受付は終了しました。明日の朝一番なら空きがあります》

いつもなら、謝罪のスタンプを足し、無理なら他店を紹介し、何度も埋め合わせを約束する。その日は一度だけ頭を下げる文で送った。

返事は《朝は間に合わないから、今日は自分で染めるね》だった。

深雪は胸が沈むのを感じた。役に立てなかった。次回予約も消えるかもしれない。

それでも予約表の二十時半を閉じ、《受付終了》へ切り替えた。

店内には、ドライヤーの熱と薬剤の甘い匂いが残っている。深雪はタオルを洗濯機へ入れ、鋏を一本ずつ拭いた。最後の鏡に自分が映ったが、笑顔を作らなかった。

シャッターを下ろす前、右手をぬるい湯へ浸した。水面で指が少し歪んで見える。

常連から次の予約が入るかは分からない。痛みも一晩では消えない。

深雪は白いままの最後の枠を確認し、店の照明を落とした。

その夜、誰の髪色も変えない時間が、閉じた店の中に残った。