月面の帰還窓

《帰還窓まで残り三百秒》

月面基地の警告灯が点き、鞠生航平の手元から固定ボルトが浮いた。

五分以内に上昇船を発射レールへ接続できれば、地球帰還軌道へ乗れる。逃せば次の窓は二十八日後。酸素は三日分しかない。

管制の声が一秒遅れて届く。

「ボルトを右へ。残り三百秒」

航平は接続部を締め、点火した。上昇船が一メートル浮いた瞬間、視界が反転する。

《帰還窓まで残り三百秒》

ボルトがまた手元から浮いた。

二周目は予備ボルト。三周目は手動点火。四周目は推進剤を減らした。差分を重ねても、船体がレールを離れる瞬間に時間が戻る。

「ボルトを右へ」

六周目、航平は基地の量子時計を調べた。ループの中心は上昇船ではなく、採掘坑から持ち帰った黒い結晶だった。結晶は未来の崩壊を観測すると、直前五分の状態を量子的に復元する。

船が発射すると、振動で結晶が砕ける。砕ける未来を避けるため、時間を戻している。

解決は単純だった。結晶を基地へ置けば帰れる。管制は即座にその案を命じた。航平の娘から届いていた帰還祝いの動画も再生され、地球へ戻る理由は画面いっぱいに示された。

ただし結晶は採掘坑の磁場を離れて六時間で崩壊する。地球へ持ち帰ることはできず、完全な構造情報を送らなければ発見は証明されない。基地の通信帯域では足りない。送信には上昇船の航法アンテナを地上へ残し、発射機能を捨てる必要がある。

八周目、航平は結晶を衝撃吸収材で包み、船へ積んだ。発射直後、容器の歪み計が閾値を越える。視界が反転し、固定ボルトがまた浮いた。持ち帰る経路はないと、それで確定した。

九周目。航平は上昇船を発射レールから切り離した。

航法アンテナを基地へ直結し、結晶の全データを地球へ送る。送信完了後、船の自爆ボルトを作動させ、帰還用燃料を真空へ放出した。

管制が叫ぶ。

「何をしている。帰還不能になるぞ」

「帰還窓を、閉じています」

残り零秒。時計は一秒先へ進んだ。

地球から受信完了の信号が届く。酸素表示は七十二時間。次の船は最短でも十日後だった。

航平は月面へ座り、青い地球を見た。帰るための五分を失った代わりに、初めて時間が自分を置いて先へ行った。