朝を十センチ
新田朱里の部屋では、朝が来ない。
母が亡くなってから三か月、遮光カーテンを閉めたままにしている。起きる時間はスマートフォンが教えるし、天気はアプリでわかる。光が入ると、母が送ってきた鉢植えの枯れた枝まで見えてしまう。母の最後の留守番電話には、「たまには窓を開けなさい」と入っている。再生するたび、朱里は窓ではなく音量を下げた。暗い部屋なら、暮らしを止めていることも輪郭を持たずに済んだ。会社では普通に働き、同僚の冗談にも笑った。帰宅して鍵を閉めると、外で使った表情を全部床へ置くように座り込む。明るくすれば片づけるべき洗濯物も、返していない手紙も見える。悲しむことより、また暮らし始めることのほうが裏切りに思えた。
日曜の午後、玄関のベルが鳴った。隣室の井沢絹代が、誤配された小包を持って立っていた。七十四歳。いつも階段を使い、花柄の買い物袋を腕に下げている。
「あなたの部屋の朝、何センチあるの?」
小包を渡すなり、絹代は訊いた。
「センチ?」
「うちは三十センチ。カーテンをそれだけ開けるの」
朱里は笑えなかった。絹代は部屋の暗さを責めるでも、元気を出せと言うでもない。
「明日、十センチだけ測ってみたら。嫌なら九センチでも」
絹代は買い物袋から短い紙の定規を出した。洋菓子店でもらったものらしく、端に苺の絵がある。
「返さなくていいわ」
それだけ言って、階段のほうへ歩いていった。
翌朝、アラームが鳴る。朱里はいつも通り画面で天気を確認した。晴れ。表示を消すと、部屋はまだ夜の色だった。
枕元に、苺の定規がある。捨てるつもりで置いたのに、赤い実だけが暗闇に浮いて見えた。
朱里は起き上がり、窓まで歩いた。カーテンの布は重い。開ければ鉢植えが見える。母が最後に来た日、「春には新しい葉が出る」と言った鉢だ。
定規を窓枠へ当てる。十センチは、思ったより狭かった。
朱里はカーテンの端をつかみ、定規の目盛りまで動かした。細い光が床を横切り、枯れた鉢の縁に触れたところで、手を止めた。