未来へ進む貸出票

文香は二十九歳の誕生日に、読み終えていない本を返しに行った。

市立図書館で借りた、四百八十二ページの長編小説。入院前は一晩で百ページ読めたのに、今は十行で眠くなる。期限を二度延長し、栞は百六十三ページに挟まったままだった。

誕生日の朝にも続きを開いた。主人公が夜明け前の駅に立つ場面で、三行読んだところから文字が二重になった。眠ったあと、同じページをもう一度開いたが、今度は最初の一行で閉じた。読めない本を抱えていることと、続きを知らないことは別だと分かった。

「また延長すればいいじゃない」

母は言った。

「次の人が待ってる」

「予約、入ってるの?」

「たぶん」

「確認したの?」

「してない」

本当は、返却期限が自分の予定より先にあるのが嫌だった。来月の日付が印字された貸出票を見るたび、本だけが当然のように未来へ進む。

けれど、そのことを母には言わない。図書館へ行く理由は、返すだけで足りる。

本の角を柔らかい布で拭き、貸出票をカバーの内側へ戻した。折り目を伸ばし、紙袋にはほかの荷物を入れなかった。母は車を正面玄関のすぐ横につけた。

休館日なので、正面玄関は暗かった。返却口だけが壁の横に開いている。文香は紙袋から本を出した。透明なカバーに、雲の写真が印刷されている。

百六十三ページには、昔乗った特急列車の切符を栞代わりに挟んでいた。二年前、友人と温泉へ行った帰りのもの。日付も座席番号も薄くなっている。裏には友人が青いペンで「窓側」と書いていた。指定席を取り違えたときの印だった。

文香は切符を抜き、ポケットへ入れた。図書館の本に自分のものを残してはいけない。

「どんな話だった?」

母が尋ねる。

「まだ分からない」

「面白くなかった?」

「面白くなる途中だった」

返却口の蓋を押す。内側から冷たい空気が出た。本を横にして差し込むと、厚みの半分で一度止まった。向こうの台にほかの本が積もっているらしい。

文香は両手で背表紙を押した。雲の写真が少しずつ壁の中へ消える。最後にタイトルの一文字だけが見え、そこも指先の下からなくなった。

本が向こう側へ落ち、鈍い音を立てた。