机が眠る言葉
放課後の教室で、担任は机の落書きを消していた。
窓際の一台だけ、何度拭いても薄い丸が浮かぶ。
教材会社の試供品だった木目翻訳蝋を塗ると、誰かが額を付けて眠ったとき、その机が最後に飲み込んだ「言わなかった一文」を話すという。
担任は自分で額を付けた。
机が小さく言った。
「笑わせなくても、ここにいていい?」
この席の生徒は、クラスでいつも冗談を言う。
遅刻も忘れ物も笑いに変え、叱られてもふざける。
教師は明るい性格だと思っていた。
翌日、すぐに本人へ問いただすことはしなかった。
机から聞いた言葉を突きつければ、隠した場所まで奪う気がしたからだ。
代わりに、図書室へ運ぶ本の整理を頼んだ。
「面白いことをしなくていい仕事」
と付け足すと、生徒は変な顔をした。
二人で黙って本を運んだ。
途中、生徒は冗談を三度言いかけ、やめた。
最後に、
「先生、僕が静かだと困る?」
と尋ねた。
担任は、
「困らない。体調が悪いかは心配する」
と答えた。
生徒は、家で両親が喧嘩すると笑わせる役をしていることを話した。
教室でも黙ると、嫌われる気がする。
疲れて保健室へ行きたい日も、冗談を待たれているようで席を立てなかった。
担任は「もう笑わせなくていい」と言わなかった。
笑うのが好きな日まで奪う言葉になるからだ。
代わりに、教室の当番表へ「静かな係」を作った。
本を配る。
窓を開ける。
誰とも話さなくてよい仕事を、希望者が選べるようにした。
最初はその生徒だけだった。
やがて、発表の苦手な子や、昼休みに一人でいたい子も選んだ。
教室には、明るく振る舞わなくても参加できる場所が増えた。
木目翻訳蝋は一度で剥がれ、机はもう話さない。
担任はほかの机にも使おうと思ったが、やめた。
聞かれたくない一文まで知ることが、教師の仕事ではない。
学期末、その生徒が机へ額を付けていた。
担任は起こさず、隣の机で採点をした。
目を覚ました生徒は、
「寝てない。考えてた」
と言った。
「そういうことにしておく」
担任は笑った。
生徒も笑ったが、誰かのために大きくする笑いではなかった。
言葉が出てくるまで、黙ったまま同じ教室にいてもよい。
机から聞いた一文は、規則ではなく、その余白を作るきっかけになった。