杯を満たしていた空気
天城冴良は、空に見える銀杯へ水差しの水を注いだ。
縁ぎりぎりまで満たし、さらに注ぐ。水が卓へ溢れると、杯の中から薄い緑の靄が押し出され、床へ流れた。
《一つの杯を選び、中身をすべて口へ入れよ。毒を摂取しなかった者が勝者となる》
向かいの鑑定士は、赤い液体の入った硝子杯を見て笑った。
「空の杯に何を足しても、赤が毒だという事実は変わらない」
冴良は水で満たした銀杯を飲み干した。
注ぐ途中、緑の靄が指先より低く沈むのを見て、顔を近づけないよう息を止めていた。ただの水を飲み終えてから、ようやく細く息を吐く。
ただの冷水だった。
鑑定士は赤い液体を避け、冴良が空にした銀杯を奪おうとする。だが一人一杯の選択はすでに確定していた。彼に残されたのは赤い杯だけだ。
覚悟して飲む。何も起きない。
『勝者、天城冴良、芦原暁生』
鑑定士は目を瞬いた。
「両方、安全だった?」
「いいえ。毒は銀杯に入っていた」
冴良が床を指す。溢れた水の周囲で、白い小虫が何匹も動かなくなっている。
毒は液体ではなく、重い気体として空の杯を満たしていた。水を注いだことで外へ追い出され、冴良は残った水だけを口へ入れた。
銀杯の内側が曇っていたのも、水滴ではなく冷却された毒気の跡だった。赤い液体ばかり照らす照明が、その曇りを影に隠していた。
「空の器にも中身はある。空気よ」
鑑定士は入室時、銀杯へ顔を近づけて匂いを嗅いでいた。あと一息深く吸えば、彼が倒れていたかもしれない。
「なぜ水差しが使えると?」
「ルールは、選んだ時点の中身を飲めとは言っていない。それに主催者は床を低くし、換気口を足元へ付けていた。空気より重い何かを扱う部屋の造りだった」
監視カメラが冴良を追う。
主催者は、目に見える赤い液体へ疑いを集中させ、空の杯へ鼻を近づける姿を撮りたかったのだ。
扉が開く。
冴良は水差しを置き、空になった銀杯へ息を吹き込んだ。
「見えないものを、ないことにしないで」