校舎峰
最後の登山は、台風で中止になった。
山岳部三年の樹里と冬馬は、前日から詰めたザックを背負ったまま部室にいた。雨は窓を横向きに流れ、電車も止まっている。
「安全第一」
顧問はそう言って職員室へ戻った。
正しい。わかっている。山の天気に逆らわないことを、三年間で嫌というほど教わった。
それでも樹里は、床へザックを下ろせなかった。
「行こう」
冬馬が立ち上がる。
「どこへ」
「山頂」
「外、台風」
「校舎の中」
彼は高度計のアプリを見せた。
一階から四階まで、標高差およそ十二メートル。最後に登る予定だった峰は千二百メートル。
「百往復」
「馬鹿」
「休憩込みで今日中」
「本当に馬鹿」
二人はザックを背負い、階段へ出た。
一往復目は笑っていた。
五往復目で肩紐が食い込む。
十往復目、二階の踊り場にいた一年生から「何してるんですか」と訊かれた。
「登山」
「校内で?」
「悪天候時の代替訓練」
冬馬が真顔で答えると、一年生は納得しかけた。
二十往復目には、廊下を通る先生たちが数を数えてくれた。三十往復目、放送部が「現在、山岳部が標高三百六十メートルを通過」と勝手に実況した。
実際には、同じ非常口の表示を何度も見ているだけだ。
樹里は途中で腹が立ってきた。
山なら、登るほど景色が変わる。木が低くなり、空が近づき、振り返れば歩いた道が見える。校舎の階段は、何度登っても四階の掲示板へ戻る。
「これ、何になるの」
四十二往復目、樹里は踊り場へ座った。
冬馬も隣へ下ろす。二人の息だけが階段に響く。
「最後に山へ行けなかった記憶」
「最悪」
「でも忘れない」
「もっときれいな景色で終わりたかった」
「山岳部らしくないな」
「何が」
「予定どおりの景色を期待するの」
樹里は笑う力もなく、ペットボトルの水を飲んだ。
結局、百往復はしなかった。
閉門時刻までに七十三往復。高度差八百七十六メートル。最後の頂上には三百メートル以上足りない。
二人は四階の先、屋上へ続く階段を上がった。扉には「立入禁止」の札があり、鍵がかかっている。
その前へザックを並べ、冬馬が保温ボトルからスープを注いだ。
「登頂失敗」
「撤退判断が遅い」
「反省会は?」
「明日から部員じゃない」
「じゃあ免責」
扉の向こうで風が唸った。景色は一つも見えない。
樹里は出席簿の最後の頁を破り、「校舎峰・標高八七六メートル地点」と書いた。二人で名前を署し、立入禁止の札の裏へ挟む。
最後の登山で、頂上には届かなかった。
けれど下山するとき、七十三回も通った階段が、初めて一度きりの道に見えた。