椎茸の傘に溜まるもの

柳沢慶は、妻と暮らした部屋の鍵を明日返す。

 妻が亡くなってから九か月、家具を減らせずにいた。ようやく小さな部屋を借り、今日、引っ越しを終えた。冷蔵庫も食卓も処分したが、古い留守番電話だけは箱に入れた。

 そこには、入院前の妻から最後に届いた音声が残っている。再生時間は十九秒。慶は一度も聞いていない。大切な言葉だったら耐えられない。夕飯の買い物のような話でも、それが最後になることに耐えられない。

 この店には妻と来たこともある。椎茸嫌いの慶へ、妻が「ここのは別」と無理に食べさせた。今夜が最後の来店で、客は慶一人だった。

 店主は肉厚の椎茸を傘を下にして網へ載せた。ひだの上で透明な汁がふつふつと揺れ、炭のはぜる音が小さく続く。醤油を一滴落とすと、森のような匂いに焦げた香りが混じった。

「汁、こぼすなよ」

 店主が皿を置いた。

 慶は傘を傾けないよう両手で箸を使った。噛むと温かい汁が口いっぱいに広がり、妻が得意そうに笑った顔を思い出した。

 スマートフォンの予定表に、明日の午前、鍵を返す前の十分間を空けた。家具のなくなった部屋で、留守番電話を再生する。途中で止めてもいい。十九秒を一度で聞けなくてもいい。それでも、聞かないまま箱へ封じるのはやめる。

 妻が何を言ったかで、九か月は終わらない。新しい部屋で眠れるとも限らない。けれど、最後の声を怖さだけのものにはしない。

留守番電話は、妻が入院用の靴下を買いに出た日に録音された。慶は会議中で出られず、あとで聞くつもりのまま病院から呼ばれた。十九秒の中に謝罪や別れがあるとは思っていない。それでも再生すれば、妻の声が過去のものになる気がしていた。明日は鍵を返す前に窓を開け、部屋へ外の音を入れてから再生する。静かすぎる場所で、一人だけの最後にしないために。聞き終えても、すぐ返事を作らなくていい。

 椎茸の傘に残った汁を口へ運ぶと、醤油の塩気の下に柔らかな甘みがあり、舌の上でいつまでも冷めなかった。