椎茸の棚、朝の湯気
黒部航平は、会計事務所で毎日数字を合わせていた。
一円の違いも見逃さず、年度末には夜中まで帳簿を追う。退職して杉林の村へ移ったあと、古民家の裏で原木椎茸を育て始めたのは、近所から伐った楢の木をもらったからだった。
穴を開け、種駒を打ち、林の棚へ並べる。
航平は原木へ番号を振り、日付と本数を表へ記録した。何本から何個採れるか、収益になるかも計算した。
椎茸農家の老人は表を見て言った。
「出るときに出るよ」
「予測できないんですか」
「きのこに決算日はないからな」
最初の年、椎茸はほとんど出なかった。
航平は失敗だと思い、原木を処分しようとした。老人は止めて、木の皮へ手を当てる。
「中で準備してる」
「見えません」
「見えない仕事もある」
航平は棚を補強し、落ち葉をかけ、雨の少ない日は水をやった。
結果のない作業は落ち着かなかったが、朝の林は気持ちよかった。湿った木、苔、遠くの土。古民家へ戻るころには、指先へ森の匂いがついていた。
二度目の秋、雨上がりの朝に白い突起を見つけた。
翌日には小さな傘になり、その次の日には掌ほどに開いた。
航平は全部同じ大きさになるまで待とうとしたが、老人が一つ摘む。
「開きすぎる前がうまい」
帳簿の締め日のように、全員を待つものではなかった。
採れた椎茸を厚く切り、古い鉄鍋で焼いた。
水分がにじみ、縁が縮んだところへ醤油と少しのバターを落とす。香ばしい匂いが土間へ広がり、航平は老人と熱いうちに食べた。
噛むと、森の水を抱えていたような旨味が出た。
その年の収穫量は、予想より少なかった。
航平は表へ数字を入れ、最後の欄に「朝、三度見に行く」と書いた。費用でも売上でもないが、消す気にはならなかった。
冬、原木は再び静かになった。
航平は朝の番茶を持って棚へ行き、何も出ていない木を眺める。
湯呑みから白い湯気が上がり、林には湿った樹皮の匂いがある。
見えない時間も、暮らしの内側で少しずつ育っている。航平はもう、何もない朝を赤字とは呼ばなかった。