樽番号七十二

品評会へ出す原酒が、別の酒に替わっていた。蔵の朝は冷えていたのに、私の掌だけが熱くなった。樽の栓には新しい傷が残っていた。朝の蔵で、蔵人たちは誰も声を出さなかった。時計だけが鳴った。

樽番号七十二。祖父の代から二十年寝かせた一樽だ。封を切ると、香りが若すぎた。

醍醐朔は酒蔵の社長の息子で、製造部長を名乗っていた。早朝の仕込みには来ず、夕方の試飲だけ現れる。

「七十二なら、先週のパーティーで使ったよ」

「品評会用です」

「有名人に飲ませたほうが宣伝になる。別の樽を入れとけば審査員には分からないって」

「封印番号が違います」

「宇治橋、雇われ杜氏が跡取りに説教するな」

私は答えず、試験室の小瓶を取り出した。毎月採取し、金庫へ保存していた七十二番の見本だ。量はわずかだが、審査には足りる。琥珀色の一滴には、杉樽の乾いた香りと、奥に残る杏のような甘みがあった。

朔が空にした夜、配信者たちは氷と炭酸で割り、半分を床へこぼして笑っていた。その映像も公開されたままだった。私は小瓶を綿で包み、祖父の筆跡が残る仕込み帳と一緒に審査会場へ運んだ。

品評会当日、朔は壇上で「自分が育てた二十年熟成」と紹介した。審査員が香りを確かめ、最高賞候補に選んだ。

その直後、酒蔵の監査役が会場へ来た。朔のパーティー費用だけでなく、父親が蔵の土地と原酒を担保に私的融資を受けていたことが判明し、株主総会は社長解任を決めたという。

朔は杯を置いた。

「蔵は醍醐家のものだ。俺を辞めさせたら誰が酒を造る」

審査委員長が首を振った。

「この酒を造ったのは宇治橋修さんです。採取記録も発酵日誌も、すべて彼の筆跡です」

再建を引き受けた酒販組合の代表が、私へ蔵の鍵を差し出した。

「宇治橋さんを新しい醸造責任者に。醍醐朔氏は原酒横領と偽装出品により懲戒解雇とします」

朔が鍵へ手を伸ばすより早く、私は樽番号七十二の新しい封印を押した。

責任者欄に刻まれた姓は、もう醍醐ではなかった。