海の匂いが戻る頃

潮乃の家では、弦汰が帰る前に海の匂いがする。港から上がる軽トラックの荷台、濡れた合羽、長靴についた網の切れ端。車が坂の下を曲がると、窓を閉めていても塩気が来るような気がした。

秋の朝、漁は昼までの予定だった。潮乃は鰯を梅と煮て、昼の御飯を炊いた。だが正午を過ぎてもエンジン音がしない。海は穏やかで、心配するほどではない。魚の選別が長引く日もある。

潮乃は縁側で網袋を繕った。針を通すたび、庭の紫蘇が風に揺れ、青い香りを放つ。時計を見ない代わりに、御飯を一度ほぐし、煮汁を鰯へかけ直した。

一時半、坂の下からエンジン音がした。潮乃は立たず、網袋の最後の目を結んだ。軽トラックが停まり、弦汰の長靴が砂利を踏む。

「腹減った」

「海に食べるものはたくさんあるでしょう」

「泳いでるうちは昼飯じゃない」

弦汰は手を洗っても、爪の間に海の匂いを残していた。二人で鰯を食べる。梅の酸味で身がほどけ、冷めかけた御飯によく合った。

遅れたのは、港で網を直していたからだという。潮乃は見れば分かると思いながら、言わなかった。弦汰の袖から漂う潮と、煮魚の生姜が部屋で混じる。

食後、縁側には二人分の湯呑みが並んだ。海はここから見えない。それでも帰る人が持ち込んだ塩気で、家の中に小さな水平線が引かれたようだった。

弦汰は湯呑みを置くと、繕った網袋を手に取り、結び目を確かめた。「前より丈夫だ」と言う。潮乃は前がどれほどだったか知らないだろうと思ったが、褒め言葉として受け取った。午後の光で、庭の紫蘇の葉が裏返る。弦汰が長靴を洗う水音を聞きながら、潮乃は鰯の鍋をすすいだ。生姜の香りは水で薄まり、代わりに窓から本物の潮風が入ってきた。

洗い終えた長靴は軒下で逆さになった。そこから落ちる雫は、遠い波より小さな間隔で、帰宅後の午後を刻んだ。

潮乃はその音を聞きつつ、茶の湯を足した。湯気の向こうで、弦汰の濡れた髪がようやく乾き始めていた。