海へ向く鯱

鴨川又七は、鯱旗の尾へ濡れ砂を詰めた。

夜明け前の磯風は弱い。重くした尾を細綱で引けば、旗を風と逆の海側へ向けられる。沖の敵船は霧で岸が見えず、城の鯱旗だけを頼りに風向きを読む。

この入江では、沖が凪でも崖下から急な山風が落ちる。旗が陸へ流れていれば敵は待つ。海へ流れていれば、山風は止んだと考えて帆を上げる。

「船の上でも風は分かる」と船奉行が言った。

「沖と磯では逆に吹きます」

「綱が見えれば終わりだ」

「霧は、嘘を隠すためにあります」

又七は旗竿の根元に座り、細綱を足指へ巻いた。鯱の腹には、前の旗持ち三人の名が小さく縫われている。全員、旗を正しく風へ流したまま撃たれて死んだ。今日は初めて、間違った向きにすることが役目だった。正しさは戦場で最も狙いやすい。両手は槍を持つ。味方から見ても、旗を引いているとは分からない。

沖で櫓拍子が響く。敵の先導船が霧の中を探っている。鯱旗は本来なら山風を受け、陸側へなびくはずだった。又七が足を引くと、砂の重い尾がゆっくり海へ向いた。

敵船で太鼓が鳴る。帆柱の軋みが増えた。止んだと読んだ。

その時、味方の若武者が塔へ上がって来た。

「旗が逆だ。結びを直せ」

「これでよい命令です」

「旗は風に従うものだ」

「兵もですか」

若武者が綱へ気づき、刀を抜く。策を知らされていない。口が軽いからだろう。

又七は槍を横にし、階段を塞いだ。

「退け。御家の旗を弄ぶ足軽を斬る」

「斬るなら、船が白岩を越えてからに」

霧の中に黒い船首が現れた。一隻、三隻、七隻。敵は帆を上げたまま入江へ入る。今なら引き返す余地がある。

若武者の刀が又七の肩へ入った。足指の綱が緩み、鯱の尾が震える。又七は綱を歯で咥え、海向きへ引き戻した。

最後の大型船が白岩を越えた瞬間、崖上の松が一斉に鳴った。山風が落ちる。帆を横から殴られ、船列が磯へ押される。

船奉行の軍配が下がった。

「火矢、放て」

又七は綱を噛み切った。自由になった鯱旗が本当の風へ翻り、陸側へ大きく向きを変えた。