海風を植える
浦辻波留は火星生まれだったが、海を知っていた。朝になると居住区の感覚網が潮の匂いを流し、頬には湿った風が当たり、遠くで波が砕ける音がした。地球文化を忘れないための公共配信で、住民はそれを「海辺の朝」と呼んだ。
波留は植物培養士になり、海風を感じながら乾燥に強い作物を育てた。いつか地球の海へ行くことが夢だった。
二十六歳の誕生日、配信網が攻撃を受けた。潮風は焼けた樹脂の臭いに変わり、波音は警報へ歪んだ。住民はパニックになり、何人も気密扉へ殺到した。波留も海が燃えていると思い、培養室を捨てて逃げた。その混乱で、十年育てた種苗の半分が枯れた。
復旧後、技師から聞かされた。火星の「海」は、地球の記録をAIが混ぜて作った合成感覚で、特定の海岸のものではない。波留が懐かしいと思っていた匂いは、生まれる前から存在しなかった。
攻撃後、地球行きの審査にも通った。だが医師は、長い低重力生活で波留の身体が地球の海岸に耐えられないと告げた。補助骨格を付ければ行けるものの、滞在できるのは十分ほどだった。映像会社は、その十分を完全な海辺体験へ補正する高額プランを勧めた。波留は迷った末に予約を取り消した。偽物の海を確かめるために、本物の身体を壊したくなかった。失った夢の代わりに、火星で触れられる水を作ろうと決めた。
彼女は地球行きの貯金を使い、培養室の一角に浅い塩水槽を作った。藻を育て、小型ファンを回し、岩へ水を打ちつけた。最初は生臭く、音も洗濯機のようだった。住民は「配信のほうが海らしい」と笑った。
それでも波留は毎日調整した。やがて藻の匂いに植物の青さが混じり、湿った風が頬を冷やした。地球の海とは違うだろう。だが停電すれば消え、手入れを怠れば濁るその水は、確かにそこにあった。
水面には、配信にはなかった小さな泡が弾けていた。
子どもが水槽へ耳を寄せた。
「これは何の海?」
「火星の一番目」
波留は答えた。借りた懐かしさを失った代わりに、彼女はまだ誰も懐かしめない海を育て始めた。