湯気で見えなくなるまで

 千景は〈今日、ちょっとしんどかった〉と送ったあと、すぐに後悔した。

 専門学校時代の友人四人とのグループチャットだった。誰かが仕事を辞めたい日や、家族とけんかした日に、短い言葉を置く場所になっている。千景もこれまで何度も、深夜のメッセージへスタンプを返した。

 それなのに自分が送る側になると、六文字がひどく重く見えた。

 水曜の二十一時四十分。十五分たっても既読はゼロ。

 何がしんどかったのか説明しようとして、千景は入力欄に箇条書きを作った。取引先の言い方。後輩への返事を間違えたこと。帰り際に上司から頼まれた明日の作業。けれど、どれも単体では小さく、並べると「慰めてほしい」という要求に見えた。

〈でも大丈夫〉

 そう送れば、受け取る側は楽になる。

〈気にしないで〉

 まだ誰も気にしていない。

 千景はどちらも消した。

 夕飯に買った鶏そぼろ弁当は、机の上で冷えていた。黄色い卵そぼろの端に、蓋の水滴が一つ落ちている。レシートの裏側に油が染み、合計金額の数字が透けている。空腹なのに箸をつける気になれず、千景は仕事着のまま先に風呂へ湯を張った。

 浴室へスマホを持ち込み、蓋の上に置く。湯船につかっても、既読はつかない。換気扇を止めると鏡が曇り、やがて画面にも細かな水滴がついた。文字がぼやけ、〈しんどかった〉の輪郭が読めなくなる。

 千景は慌ててスマホを脱衣所へ出した。壊したくなかったからだ。戻って肩まで湯につかると、連絡を手放した理由が「心を休めるため」ではなく「防水でも心配だから」という単純さになった。

 誰かが読む前に元気なふりを足さなくていい。説明できない疲れは、説明が完成するまで存在を待ってくれない。

 湯から上がり、冷えた弁当を電子レンジへ入れた。今度は温め終わるまで画面を見なかった。

 チャットはまだ未読だった。千景はそれを確認し、追加の言葉を送らず、温かくなったそぼろを食べた。大丈夫ではないまま夕飯を食べる夜も、今日を終える方法の一つだった。