火を弱める鍵
塩見結雨は、水炊きの火が強くなるたび、卓上コンロのつまみを弱へ戻した。
友人の部屋へ来るのは八か月ぶりだった。恋人が、夜に外出するのを嫌がるからだ。今日は会社の研修会と嘘をついてきた。スマートフォンには、帰宅時刻を確認する通知が七件並んでいる。
別れたいとは、まだ誰にも言えない。
怒鳴られたことも殴られたこともない。ただ服を選ばれ、交友関係を減らされ、給料口座を一緒に管理されている。心配しているだけだと言われると、自分の息苦しさのほうが間違いに思えた。
友人の連絡先を消したのも、写真を非公開にしたのも、二人の生活を大切にするためだと説明された。結雨も同意した。嫌だと言った記憶はあるのに、最後にはいつも自分から謝っていた。
鍋から柑橘の香りが上がった。鶏肉は噛むとやわらかく弾み、厚い取り皿は掌へ丸い熱を返した。
友人は結雨の手首に残った赤い跡を見ても、何も聞かなかった。鍋が煮立つと火を弱め、結雨の皿へ鶏肉を一切れだけ入れた。
結雨はそれを細かく三つに裂いた。急いで食べれば予定どおり帰れる。けれど一口目を飲み込んだところで、スマートフォンがまた震えた。
友人がテーブルへ小さな鍵を置いた。以前、合鍵を返したときと同じ銀色だった。恋人と暮らし始める日に「もう必要ない」と返した鍵を、友人は捨てずに持っていた。
「今夜でも使える」
言葉はそれだけだった。
結雨は二口目を食べ、三口目を皿へ残した。いつもなら食事を残すと恋人に叱られる。作った人への敬意がない、と。友人は残った鶏肉を見ても、皿を下げなかった。食べる理由も、帰らない理由も、結雨が自分で決めるまで待った。
結雨は通知を一つずつ消し、位置情報の共有を切った。電話が鳴る前に電源も落とした。
鍵を取る手は震えた。友人は握らせず、ただ皿の隣に置いたまま鍋の火を止めた。
結雨は残した一口を食べなかった。自分の満腹を、自分で決めた最初の食事にしたかった。
その夜、恋人の部屋には戻らなかった。友人の客用布団のそばで、銀色の鍵だけが掌の温度を残していた。