無音のまま保存
莉子は、音声編集の合間に家事をした。
フリーの編集者として自宅で働いていると、休憩と怠慢の境目が見えない。書き出しを待つ三分で食器を洗い、データを送る五分で床を掃く。ソファに座るだけの時間は、請求できない空白として消した。
その夜、七本目の音源を納品したのは二十三時だった。イヤホンを外すと、部屋が急に広く感じた。耳の奥では、さっきまで聞いていた話し声がまだ揺れている。翌朝締切の一本が残っていたが、編集は半分終わっている。今から続ければ二時には終わる。
莉子はタイムラインを再生した。話者が言葉を探す三秒の沈黙がある。いつもなら切る箇所だ。無音が長いと、聞き手が離れる。テンポを整えるのが莉子の仕事だった。
波形のない三秒を選択し、削除キーへ指を置く。すると自分の呼吸がやけに大きく聞こえた。今日一日、誰かの言葉の隙間を埋め続け、自分の隙間には洗濯や返信を詰めていた。
再生を止め、キッチンを見る。流しにはマグカップが一つ、洗濯機には乾いた服が残っている。どちらも今夜片づけられる。片づけてから休めば、罪悪感なく眠れる。
けれど「片づけてから」は、いつも次の仕事を連れてきた。
莉子は三秒の沈黙を削除せず、編集ソフトを保存した。ファイル名の末尾に「途中」とつける。完成版にしか使わないフォルダへは入れなかった。
イヤホンを机に置き、洗濯機の蓋も開けない。流しのマグカップへ水だけを張る。明日の自分が見れば、昨夜の自分が途中でやめたことが分かる。それを見せるのが少し怖かった。
寝室へ行く前、莉子はもう一度パソコンの画面を見た。タイムラインの中央に、平らな三秒が残っている。仕事としては、あとで切るかもしれない。けれど今夜は、その無音を未処理のまま保存した。
布団に入ると、耳の奥の声が少しずつ遠ざかった。休息に音楽を流すことも、睡眠用の番組を再生することもしない。何も聞かない時間を有効に使おうとせず、莉子は暗い部屋の音だけに身を置いた。