父を呼ぶ練習
介護施設の中で人の本名を呼ぶと、呼ばれた人の寿命が一日減る。「お父さん」「先生」などの呼び方は、本人が自分のことだと理解している間だけ減らない。
朱雀野丈の父は、三か月前から「父さん」に振り向かなくなった。面会では二一号と呼ぶ。職員も家族も、名を使うのは月一回の診察だけにしていた。
丈は実家の売却同意書を持って施設へ行った。空き家の税金を払い続ける余裕がなかった。取り壊し前に荷物を選べと言われたが、欲しいものは思いつかなかった。父は食堂の端で、角砂糖を二つ積んでいた。
実家では、父が丈の身長を台所の柱へ毎年刻んだ。名前は書かず、年月と一本の線だけ。最後の線は丈が家を出た二十二歳で止まっている。
「二一号、署名してほしい」
「誰の家だ」
「あなたの家」
「私は二一号だ。家なんかない」
職員は、本人確認のためなら一度だけ名を呼べると言った。ただしその一日が最後になる可能性もある。
丈は廊下で何度か口の形を練習した。声を出せば、壁の向こうにいる父から一日減る。練習でも同じだ。
食堂へ戻り、父の正面に座った。
「朱雀野巌」
父の寿命票が赤く一度点滅した。積んでいた角砂糖が崩れる。老人は丈の顔を見て、長いあいだ探すように目を細めた。
「丈」
今度は丈の胸の寿命票が一日減った。父が息子の名を呼んだのは二年ぶりだった。
「家、売っていいか」
「台所の柱は持っていけ」
父はそれだけは迷わず言い、角砂糖を一本の柱のように立て直した。
同意書には署名せず、父は家の間取りを描いた。鉛筆を握る指は震えたが、台所の位置だけは何度も濃くなぞった。台所の隅に四角い柱、その横に丈の子どものころの身長線を何本も引いた。
職員は書類不備だと言った。丈はそのまま持ち帰ることにした。
面会終了後、テーブルには紙コップが二つ残っていた。片方に「父」、もう片方に「息子」と職員の字で書かれている。どちらも空だったが、底には角砂糖が一つずつ、溶けずに貼りついていた。
二つの砂糖の上には、同じ長さの鉛筆線が一本ずつ引かれていた。